Untitled

03_禅僧小噺.jpg

龍彦 写真  11月.jpg



第210話 「私が気づいた坐禅の魅力

山本 龍彦 Yamamoto Ryugen


みなさんには、理想の坐禅はありますでしょうか?
あるという人は、自分の坐禅と理想の坐禅を比べて落ち込むこともあるのではないでしょうか?
実は、私がそうでした。

自分の理想とする坐禅があり、いつももっと綺麗に坐りたい。
もっと落ち着いて坐りたいと思い、それができていない自分の坐禅をダメな坐禅と思っていました。
ダメな坐禅と思って坐ると、どうしても坐禅に対して苦手意識を持ってしまいます。

そんな私の考えを変えてくれたのがここ、駒沢坐禅教室です。
ここにいる皆さんと坐禅をするようになって1年半、仕事が終わって急いで来ている人、遠くから電車を乗って来ている人、色々な人と触れ合い、話をする中で、ここにいる皆さんは自ら望んで坐禅をしていることを知りました。
では何故、自ら望んで坐禅をしたくなるのか。
それはこの駒沢坐禅教室という空間や、今という時間こそがなによりも尊いものなんのだと。気づきました。
それに気づくと理想を追い求めて坐っていた坐禅を辞め、それよりも皆さんと一緒に坐れるこの時、この空間を大切にしたいと思うことができたのです。

本日も皆様と一緒に坐禅できることに感謝して坐っていきたいと思います。

(2018.11.8 駒沢坐禅教室より)

堂頭感話10.18(画像).jpg



第209話 「いつまでも柔らかいこころ

武井 広機 Takei Koki


相田みつをさんの詩で、こんな詩があります。

やわらかい あたま
やわらかい こころ
わか竹のような

 相田みつをさんは道元禅師やお釈迦様の教えを学ばれ、それが多くの詩に影響したと言われています。この詩も、その一つです。

やわらかいこころとは、何事にも囚われない、素直なこころのこと。
きれいな花を見たら、あぁきれいだなぁ…と、感じる。
相手の良いところは良いなぁ…と、素直に認める。
わか竹はしっかり根を張り、強い風でも囁くような風でも、どんな風でも倒れることなく揺れます。
そんな“わか竹”のように、柔軟に揺れる、素直で大らかなこころをいつまでも持ちたいものです。



(2018.10.18 駒沢坐禅教室より)

木版.jpg



第208話 「今を生きるという教え

山岸 弘明 Yamagishi Komei


私が修行道場で修行していた頃、
ある老師が私に、事あるごと次の様に話してくださいました。
「いままでどうしてきたかではなく、今どう行動するかが大事なんだよ」と。
私に怠け心が出てくるとすぐに老師は見抜き、叱ってくださいます。
この「今を生きる」という教えはこの坐禅堂の木版にも書かれています。
いつも坐禅堂に入る前にパコパコと鳴る鳴らし物が木版です。そこには
このように書かれています。皆様も後でご確認ください。

「生死事大 無常迅速 各宜醒覚 慎勿放逸」
(しょうじじだい  むじょうじんそく
おのおのよろしくせいかくすべし  つつしんでほういつなることなかれ)

この言葉は
いつ死んでしまうかわからない私たちは今をどう生きるかが大事である。
怠(おこた)ることなく精進しましょう。
という意味です。
今は修行道場を離れ、あの老師になかなか会うことはできませんが、
坐禅の最後にいつも鳴る木版の音を聞くと私はあの老師に
「坐禅はこれで終わるけれども坐禅を行じたあとどう生きるかが大事だぞ」
と励まされている気がして身が引き締まる想いがするのです。


(2018.10.4 駒沢坐禅教室より)

onair.png



第207話 「オンエア

山内 弾正 Yamauchi Danjo


TVやラジオなどで、「オンエア」という言葉を聞いたことはないでしょうか。
番組が放送中であることを意味する言葉です。

「オンエア」は、もともと英語で、
空気の上にのせることを表すオンザエアが語源となっています。

なぜ、空気の上にのせることと、TVやラジオを放送することがつながるのでしょうか。

それは、私たちが常に、この空気を介して自分自身の想いを伝え、誰かの気持ちを受け取っているからです。

空気を震わせることで言葉を発し、その震動を受け取ることで声を聞く。

それがTVやラジオであっても、たわいのない会話であっても、誰かになにかを伝えるために、私たちはこの空気に想いをのせるのです。

そしてそれは、言い換えれば、私たちが常にこの空気によって、ほかの誰かと繋がっているともいえるでしょう。

今、ただ一人で座っているようでも、この坐禅堂の中の空気を伝って、私とみなさんは繋がっています。

「On-Air」。空気にのせることができるのは、なにも言葉だけではありません。

今の私たちが、この坐禅堂の中で静かに足を組めるのは、この場にいるみなさん一人ひとりが、この場の空気に自身を委ね、今日のこの、坐禅堂の中の空気と一体になっているからです。

その空気に満たされた特別な空間で、坐禅を通じた互いの繋がりをゆっくり味わいながら、静かに坐ってまいりましょう。



(2018.9.29 駒沢坐禅教室より)

禅僧小噺 平成30年9月27日画像.jpg



第206話 「世界の見え方

秦 慧洲 Hata Eshu


今年の夏、私は上野の国立科学博物館でやっている昆虫展を見に行きました。そこでは虫の立場から見える世界観が展示されており、私はすっかり虫の魅力に惹かれました。例えば、虫の視力はほとんどないといわれていますが動体視力はとても優れ、さらに複数の眼を持つことからあらゆる角度を見通すことが出来ます。色の見え方も人間とは全く異なり、例えば白い花は青く見えたりするそうです。このように同じ世界にいても、人間と虫では世界の見え方が全く異なるのです。
 仏教の言葉で「仏の眼」と書いて、「仏(ぶつ)眼(げん)」という言葉があります。仏の眼、つまり真実を見通す悟りの眼は、この世界をありのままに見ることが出来ると言われています。一方、私たちが今目の前に見ているこの世界は本当にありのままなのでしょうか。当たり前と思っているこの世界は、虫たちから見ればまた違った世界となっているように、この世界をありのままに見通すこと、それはとても難しいことなのです。大事なことは世界には様々な見え方がある。そのことに気づくだけでも、この世界はまた違った景色を見せてくれるのではないでしょうか。


(2018.9.27 駒沢坐禅教室より)

DSC_0809.jpg



第205話 「湧いてくる思いに自分を見る

久松 彰彦 Hisamatsu Shogen


坐禅をしていると、いろいろな思いが浮かんできます。熱いな、寒いな、あしが痛いなといったこと。また、以前あった嫌なことであったり、これから先の不安が浮かぶこともあるでしょう。そして、そうした思いが浮かぶたびに、これはいけない。坐禅に集中できていない。もっと頑張らねば、と考えるかもしれません。

 沢木興道老師は坐禅中に湧いてくる思いについて、それは「自分自身の内容が浮かび上がってくるのだ」とおっしゃっています。

 坐禅という静けさの中で、普段気に留めない思いが出てくる。これは自然なことであり、自分とは切っては離せないことなのです。

 坐禅は自分自身と向き合うことだと表現されることもあります。自然と湧いてくる自分自身の内容、それを受け止めていくことが、自分自身と向き合うことの一歩になるのではないでしょうか。


(2018.9.13 駒沢坐禅教室より)

木版.jpg



第204話 「今を生きるという教え

山岸 弘明 Yamagishi Komei


私が修行道場で修行していた頃、ある老師が私に、事あるごと次の様に話してくださいました。


「いままでどうしてきたかではなく、今どう行動するかが大事なんだよ」と。


 私に怠け心が出てくるとすぐに老師は見抜き、叱ってくださいます。

 この「今を生きる」という教えはこの坐禅堂の木版にも書かれています。いつも坐禅堂に入る前にパコパコと鳴る鳴らし物が木版です。そこにはこのように書かれています。皆様も後でご確認ください。




「生死事大 無常迅速 各宜醒覚 慎勿放逸」
(しょうじじだい  むじょうじんそく
おのおのよろしくせいかくすべし  つつしんでほういつなることなかれ)




 この言葉は、いつ死んでしまうかわからない私たちは今をどう生きるかが大事である。怠(おこた)ることなく精進しましょう、という意味です。
 今は修行道場を離れ、あの老師になかなか会うことはできませんが、坐禅の最後にいつも鳴る木版の音を聞くと私はあの老師に
「坐禅はこれで終わるけれども坐禅を行じたあとどう生きるかが大事だぞ」
と励まされている気がして身が引き締まる想いがするのです。


(2018.7.19 駒沢坐禅教室より)

龍彦 写真.jpg



第203話 「気づき」

山本 龍彦 Yamamoto Ryugen



ある老師がこんなことを言っていました。

「坐禅とは気づきである」と。

 これを聞いて私は坐禅とは何かに気づかなくてはいけないのだと思いました。

 その後何回か坐っていると、今日は特に何も気づけなかったとネガティブに考えてしまう自分がいたのです。

 そんな坐禅について、老師に尋ねてみるとこう言われました。

「気づきの為に坐るのではない。坐った結果気づくのだよ。」

 気づこう、気づこうと思って坐るとそれはかえって気づきから、どんどんから遠ざかっているということを仰りたかったのだと思います。

 何かを求めるのではなくこの時この場所と向き合っていきましょう。




(2018.7.5 駒沢坐禅教室より)

禅僧小噺2018.6.28 画像(秦).jpg



第202話 「点・線・絵」

秦 慧洲 Hata Eshu



曹洞宗の大本山である永平寺。その先代のご住職で宮崎奕保(みやざきえきほ)という禅師様がいらっしゃいました。
 100歳を超えるご高齢の禅師様でしたが、永平寺では毎朝三時には起きて、誰よりも早く坐禅をされていた方でした。今日はその宮崎禅師の言葉を一つご紹介したいと思います。


「1日真似をしたら1日の真似だ。ところが一生真似したら、真似が本物だ」


 この言葉を聞いてみなさんはどんな印象を持つでしょうか?私はこの1日の真似というものが1つの点のようなもので、その点が毎日続けば長い長い線となるような印象を持ちました。もし線を引く事ができれば、絵を描くこともできます。点が線になり、そして一つの絵になる。逆にどんな点であっても、その点が抜けてしまえば絵にはならないでしょう。私たちが生きているこの人生も同じことが言えます。人生という絵を描くには、今日という点を打ち続けるしかありません。たとえ、今日という1日がダメな日だったと思うことがあっても、それも一つの点として日々積み重ねることで大きな絵となり、本物となる。そう思えれば少しだけ肩の力が抜けるのではないでしょうか?



(2018.6.28 駒沢坐禅教室より)

小噺用西田.jpg



第201話 「不立文字」

西田 稔光 Nishida Shinko



禅の精神はある言葉で表されることがあります。


「フリュウモンジ」


お聞きになったことがあるでしょうか?「フリュウ」は不可能の「不」に「立」、「モンジ」は私たちの使う「文字」という字を書きます。
不立とは表さない、文字とは言葉のことと言って良いでしょう。
つまりこれは、禅の教えというのは文字で表すものではない、という言葉なのです。

ところが古くから残る資料から今日書店に並ぶ解説書に至るまで、禅の教えは言葉となってたくさん残されています。これはどういうことでしょうか?

実はこれは、言葉に表すこと自体ではなく、それによってわかった気になってしまうことを戒めているのです。

私たちは言葉や文字によって多くを知り、伝え、残していきます。
ところが、その言葉があることによって、本来わかるはずのないものを分かった気になってしまうことがあります。例えば「命」であったり「幸せ」「無」「死」など、言葉を知ったことで本来は頭で理解しようのないものをわかった気になってしまう。
便利な世の中では、そんな言葉というものがもつ限界を忘れて、目に見える情報や言葉での表現にばかり気持ちが引っ張られてしまっているのではないでしょうか?

坐禅ではそうした日常を離れ、今こうして坐って見えるもの、聞こえる音、香り、肌の感覚、様々な想い。
あれこれと頭で考え、わかろうとするのをやめて、今はそれを感じるままに味わってみてはいかがでしょうか。




(2018.6.7 駒沢坐禅教室より)

DSC_0852.JPG



第200話 「喫茶喫飯」

本田 真大 Honda shindai



こうして坐禅堂の中でいただくお茶はいかがですか?
とても新鮮ですよね。私も修行道場以来でとても新鮮です。

 修行道場では坐禅堂で食事をとりますし、こうしてお茶をいただく機会も有ります。この駒沢坐禅教室で私たちが坐禅作法の指導をする際、この浄緣は足やお尻を付けないと普段お伝えしていますが、まさにこのようにお茶菓子や食器を置いて、食事をとったりお茶を飲んだりします。だからなるべく触れないようにしているわけです。

 私が修行道場にいた頃、こうして坐禅堂でいただく食事やお茶菓子というのは本当に美味しく、味わい深く感じられました。その理由の1つに、坐禅堂で、坐禅を組んで、いただくことが挙げられると思います。

 姿勢を調えて足を組み、呼吸を調える。そして食事やお茶をいただく。それ以外のことは何もありません。この「ただ、いただく」ということが、実はとても大切な事なのではないでしょうか。

 曹洞宗の教えを全国に広められ、大本山總持寺をお開きになられた瑩山禅師という方がおられます。この瑩山禅師様の言葉に次のような言葉があります。
「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」
瑩山禅師様が自分のお師匠さまに、自分の仏道の境地を具体的に示す際におっしゃった言葉です。
「茶」というのはお茶。「飯」というのはご飯のことです。お茶を飲むときはお茶を飲み、ご飯を食べるときはご飯を食べる。当たり前のことのように思えますが、忙しい日常生活を送る私たちは、実はこれがなかなかできません。テレビを見ながら、携帯電話を確認しながら、仕事のことを考えながら…。このように「ながら」でいただく食事やお茶では、その本来の味わいに気づくことは難しいのではないでしょうか。

 食事の時だけではありません。仕事をしている時でも、人と話している時でも、過去に囚われたり、先のことに思い悩んだりする事なく、目の前の事をただひたすらに行ずる。この姿勢こそ、私たちが目指すべき心の在りようなのです。

 仏教の教えは特別な手段や非日常の中にあるのではない、そして食事だけに止まらず、日常の1コマ1コマに打ち込む事の大切さを説いた言葉です。

 本日は半日参禅会ということで普段と趣向を変えまして、坐禅堂でお茶菓子を召し上がっていただきました。その中で瑩山禅師様の言葉をご紹介させていただきました。





(2018.5.26 駒沢坐禅教室より)

bind_19.jpg



第199話 「美しいものたち」

山内 弾正 Yamauchi Danjo



世の中には数多くの美しいものがあります。

朝焼けの中に佇む街路樹や、道端にひっそりと咲く一輪の花。
ショーウィンドウに映った青空や、灰色のビルにかかった小さな虹。

私たちのすぐそばにある美しいものたち。
でも、どんなに美しいものであっても、それだけでは美しいものとはなりません。


 中国の言葉に次のようなものがあります。

『夫れ美は自ら美ならず。人に因って彰わる。』(柳宗元)



だいたい美というものは、それ自体で成立するわけではない。誰かがそれを感じとって、はじめて美としてあらわれるのだ。という意味です。

美しいものは、伝える側と受け取る側。そのふたつがあってはじめてあらわれるものです。

私たちのすぐそばにある美しいものたち。
そして、目に映る景色だけでなく、私たちの内にもある美しいものたち。

その美しいものたちに気づき、美しいものとしてあらわしていくために。
独りよがりにならず、心も体もどこかに片寄るのではなく、ただあるがままに物事をみつめていくことが大切ではないでしょうか。

今日のこの坐禅の時間が、そんな気づきの一助になることを願っています。



(2018.5.17 駒沢坐禅教室より)

162.jpg



第198話 「整理整頓」

武井 広機 Takei Koki



私が修行していた頃、お寺に参拝に来られた方からこんなことを聞かれたことがあった。


「お坊さんって、最低限のものだけで生活してるんでしょ?」


 確かに、修行をしていた時、身の回りの物は必要最低限のものしか持ち込むことができなかった。
携帯電話、テレビ、新聞は無論、余分に多く買った靴下に下着、ノート、何色も用意した蛍光ペン、手に塗るハンドクリームも、そんなもの必要ない!とばっさり。

 そしていざ修行が始まると、あまりの物の無さに驚愕した。みんなで使う畳の部屋には棚と衝立(ついたて)があるだけだった。



 そんな修行生活を終え、家に戻ったときに呆然とした。

きれいにしているつもりでいたが、よく見ると散らかっていた自分の部屋。
ぎゅうぎゅうに洋服を詰めこんだ箪笥、押し入れを開ければ積みあがった雑誌、棚の中もあれもこれも詰め込んでいる状態であった。
ハッと、修行中のあのみんなで使っていた畳の部屋を思い出した。
棚の中はスペースが残るほど整理整頓された部屋。思い返してみると、修行中、そんな部屋では雑念もなくどこか心にゆとりを持っていた気がした。

心のゆとり、落ち着きというが、身の回りの環境についても言えることなんだなと感じた。
改めて、身の回りの物を整えていこうと感じた。

(2018.5.10 駒沢坐禅教室より)

DSC_1134.jpg



第197話 「痛みを見つめる」

久松 彰彦 Hisamatsu Shogen



坐禅をしていると段々と脚が痛くなってくるかもしれません。坐禅は我慢大会ではないので、どうしても辛くなったら脚を解いて大丈夫です。
ただ少しだけ、痛みを味わう余裕を少しだけ持っていただきたいと思います。


 村上春樹の本に『走ることについて語るときに僕の語ること』というものがあります。
その中で、あるマラソンランナーが42.195キロ走る際に、頭の中で繰り返し唱えている言葉が紹介されています。
それは、「痛みは避け難いが、苦しみはこちら次第」です。


痛いと判断を下すと、私たちはそれから逃れようとします。それでもその痛みはなかなかなくならない。足を崩しても、他のところが痛くなってくる。こうした痛みから逃れようとするところに苦しみが生まれるのです。

痛みをもたらす感覚自体をなくすことはできません。けれど、そこから逃れたいという思いは和らげることができます。

それには、穏やかな呼吸を続けながら、自分の逃れたいという思いに対して覚めた眼差しを送ることが必要です。

それぞれのできる範囲で大丈夫ですので、自分の痛みと向き合ってみてください。

(2018.4.28 駒沢坐禅教室より)

30f69699-8810-4a6f-8eb5-34922d8aa653.jpg



第196話 「海を渡った天才」

久保田 智照 Kubota Chisho



大谷選手の代名詞と言えば、投手と打者の両方に挑戦する…いわゆる「二刀流」です。これは現代のプロ野球においてまさに常識外れの挑戦と言っていいものでした。しかし、この二刀流への挑戦は誰もが歓迎するものではなく、常に物議を醸してきました。

 曰く、「投手と打者両方なんてうまくいくわけがない。どちらかに専念すべき」
 曰く、「プロ野球をなめている」
 曰く、「いい結果を残してもタイトル獲得は望めない」

 などなど。

 しかし、彼はそのすべてに答え続けています。日本プロ野球では、投手でも打者でも一流と呼ばれるに値する成績を残し、チームメイトやコーチ陣が驚くほど真摯な姿勢で野球に取り組み、2015年には最高勝率・勝利数・防御率という投手三冠と呼ばれるタイトルまでをも獲得し、野球ファンを唸らせました。

 これらはすべて、彼が「先入観」に囚われず、挑戦し続けた結果であると言えるでしょう。テレビの中の大谷選手がいかにも楽しそうに、また充実した表情で野球をしている姿を見ると、自分も「先入観」などという思い込みに囚われず、一丁やってやろうじゃあないか、そんな気持ちになります。

(2018.4.19 駒沢坐禅教室より)

IMG_4691.JPG



第195話 「追うな、追うな。」

深澤 亮道 Fukazawa Ryodo



ある禅僧がこんな言葉を残しています。

「心の中に何か浮かんできても、浮かびっぱなし、
追うな、追うな。」

人生をいかに生きるか。
これが仏教における大きなテーマだと思います。
そして、その問題に対して「一生懸命生きる」というのが一つの答えとしてあります。人生とはあっという間です。この一瞬一瞬が大切ですよ、この世は無常ですよ、だからこそ一生懸命生きなさい、と言ったところでそのことを常日頃から実感して生きていくのは大変難しいのではないでしょうか。

人は朝起きてから、夜寝るまで常に何かを考えている生き物です。そして未だ来ない先のことを考え、過ぎてしまったことにくよくよ悩み、「本当に今日はいい日だったなぁ」「一生懸命生きたな」と思う一日は少ないのではないでしょうか。私の日常もそんな繰り返しです。しかし、それこそが人間らしさであり、人間だからこそ出来ることなのかなと思います。それを認めてあげることも、一つの生き方としていいのかなと。

一方で、必要以上に先のことを考え、過ぎてしまったことを悩みすぎると、自分の成長やせっかく巡ってきたチャンスを逃すことになります。大事なことはある程度悩んだらあとは必要以上に追いかけないことなのかなと思います。
坐禅の中においても、人生を生きる上でも、


「心の中に何か浮かんできても、浮かびっぱなし、
追うな追うな。」



私はとても好きな言葉です。

(2018.4.17 駒沢坐禅教室より)