コラム〜禅僧小噺 第151話〜

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Shojin Projectメンバーによるコラムをお送りいたします。

月2回更新

2017.11.10

小噺.jpg第189話 西田 稔光 Nishida Shinko









「内側と外側」





秋らしい日がほとんどないまま10月が終わってしまいました。
10月というと今年も何かと話題になったのがハロウィン。
特に渋谷の盛り上がりは年々増していて、一週間前にはすでに仮装している方をちらほら見かけました。
当日の様子はニュースで見た程度ですが、あらかじめ警察が配備されるほどの混雑とドンチャン騒ぎだったようです。もう恐ろしくてこの時期の渋谷には近づけません(笑)
しかし実は私も、4年前のハロウィンにはあの激流の中にいました。
その年初めて渋谷のハロウィンに参加しましたが、なんとなく敬遠していたあのドンチャン騒ぎも中に入ってしまえば楽しかった記憶があります。
その時、同じ文化でも外側から見るのと内側から見るのでは全く別物であることに気づかされました。

これは何事にも共通することなのかもしれません。特に文化や宗教は、その渦中にいる人とハタから見ている人では見えているものが全く異なります。
自分にとっての趣味や好みがあるように、人には人の習慣や信仰があります。
大切なことは、自分の知らない、興味のない文化や宗教でもそこに汗や涙を流している人がいるということを忘れないことなのかもしれません。





2017.10.27

belowlasi-wh-500.jpg第188話 武井 広樹 Takei Kouki









「秋の匂い」





私にとって秋の匂いというと、ほんのり香る、金木犀の甘い匂いです。

毎年この香りが漂うと、当時通っていた高校の帰り道を思い出します。

学校と駅を結ぶ細い坂道に咲いていた金木犀。
金木犀の香りがするこの時期は、ちょうど日の沈む時間が早くなり、学校から帰る頃には外は少し薄暗く肌寒く感じます。
帰り道のそんな雰囲気に、高校生だった私はどこか寂しさを感じていました。
そしてそんな時に、金木犀の香りがしました。

友達と喧嘩をしたり、進路をどうするか悩んだり、好きな人にどうしたら近づけるか考えたり…

毎秋、金木犀の匂いがすると甘くていい香りだなと感じると同時に、あの頃は青春真っ只中で色々なことで悩んでいたなと、そんな思い出が蘇ります。


あの頃に戻りたいなぁ。



2017.10.13

kuro.jpg第187話 佐粧 博史 Sashou Hakushi









「776」





今年の10月は暑さがぶり返したり、涼しかったりと体調を崩しやすいですね。私も風邪をひいてしまいました。



先日、コンビニで栄養ドリンクやマスクなど買い物をした時の事です。

レジで表示された金額は776円…。

この数字…。


後、1円多ければ…。


どうして、こう思うのか。

7が3つ揃えばラッキーな気がする。

明らかに、心の持ちようだが。


何故かその数字に囚われてしまい、勝手に思い込んで勝手にちょっと落胆する。


日々の生活の中に、結構こういう心の揺らぎってありませんか?


その事実だけを受け入れればいいだけなのに。そこに乗ってしまうのです、僕の勝手な思い込みが。

コンビニのお会計の金額なだけなのに。


後、1円か…。


2017.9.29

提灯.JPG第186話 江刺 亮専 Esashi Ryosen









「不便の中にある自由」




 先日、今まで使っていた携帯電話が壊れてしまいました。
落として画面が割れてしまったわけではなく、中のバッテリーや充電する部分が老朽化してしまい、まったく充電ができなくなってしまったのです。

 仕事はもちろんですが、友人との連絡や調べものでも使う携帯電話。私たちの生活の中ではまさに必需品といえるでしょう。そんな携帯電話がなくなってしまったらいったいどんなに不便な生活を送らなくてはならないのか…。

と、思っていた私ですが、意外にもまったく不便ではなかったのです。

 携帯電話が鳴らない分、家でゆっくり本を読んでみたり、何も持たずにぶらぶらと散歩をしてみたりと、私にとっては予想以上に有意義な時間を過ごすことができました。

 「一日って結構長いんだな」

 暇さえあれば、特に何をするわけでもなく携帯電話の画面を見ていた私。今までどれだけ携帯電話に時間を奪われていたのだろうと改めて実感したのです。

 便利なものに囲まれながらも、いつも時間に追われている現代ですが、たまには携帯電話の電源をOFFにして自由な時間をのんびり過ごすことも一興だなと、新しい楽しみ方を壊れた携帯電話に教えてもらったのでした。






2017.9.27

セミ.jpg第185話 伊藤 正法 Ito Shobo





「セミの一生」




「ミーンミンミン…」「ツクツクホーシ」

夏の盛りに比べると少ないですが、耳を澄ますとまだセミの声が聞こえてきます。
真夏の頃から考えれば少なくなりましたが、未だ元気いっぱいに鳴いていました。
セミは、幼虫で三年〜十七年間土の中で生活し、成虫になれば一、二週間で寿命を終えます。その一生は私たち人間と比べてみると、如何に短いかを窺(うかが)い知ることが出来ます。
しかし、彼らは短命でありながらも一秒たりとも無駄にしないように鳴き続けています。それはまるで、自分自身の寿命の長さを理解しているようにも見えました。

「人間五十年夢幻のごとくなり…」

かの戦国武将、織田信長が好んで舞った幸若舞(こうわかまい)の謡曲の一節です。
謡曲に歌われる背景として、その時代に生きる多くの人々が戦争などで命を落とすような出来事が多くあったことが原因ではないでしょうか。
現代ではめざましい医術の進歩により、治らない病気も徐々に少なくなり長寿時代を迎えました。
一方で、私たちは長くなった寿命を如何に全うするか問われているような気がします。
一生懸命に鳴いているセミの姿からそのようなことを感じたのでした。





2017.9.12

sadou2.jpg第184話 山本 龍彦 Yamamoto Ryuugen





「盆踊り」




私の生まれたお寺では毎年八月のはじめに盆踊りを行っています。

毎年、自治会の方たちや地元の農家の人たち、近くの学校の子供たちなど200人近い人が集まり、綿あめやかき氷、ビールや焼き鳥などの出店が境内に並びます。この盆踊りには一般のお祭りと違うところがあります。それはお金をほとんど取らないということです。
金魚すくいやヨーヨー釣り、当てくじなども一人一回まで無料で行うことができ、かき氷やポップコーンなども自由に食べることができます。

子供の頃は、境内でやっているから、お寺がお金を出しているのだと思っていました。しかし、実際はそうではなく地元の方たちの寄付によって運営していることを最近になって知りました。

私は小学生から電車に乗って一時間の学校に通っていました。そのため、地元の友達が誰もいませんでした。でも、お寺で行う盆踊りのおかげで子供たちと触れ合う機会をいただくことができました。これも盆踊りを運営してくださる自治会の人や地元の人のおかげだと思っています。

最近は地元の人達との繋がりが薄れてしまっているような気がします。「この現状をなんとかしたい」そのように思って、数年前から恩返しのつもりで私もひとつ出店を行っています。はじめはポップコーン屋さん、去年からは綿あめ屋さんを行っています。段々と薄れゆく地元の繋がりも、こういったイベントを通じて少しでも強くなってくれると嬉しいです。




2017.8.31

bind_19.jpg第183話 山内 弾正 Yamauchi Danjo





「長風呂」




じっとりとした残暑が続く今日この頃。
こんな時節こそ、熱いお湯に浸かって気持ち良く汗を流したいものです。でも、長風呂には要注意。
先だって、それを痛感する出来事がありました。


立て込んでいた仕事が落ち着き、ヘトヘトになりながら家路についた私は、

「そうだ、こんな日こそ熱い風呂に入ってサッパリしよう」

そう思い立ち、コンビニで湯上りのビールまで買って気分良く帰宅しました。


この日も最高気温が30度を超える真夏日。
汗をかいた服を洗濯機に放り込み、乾いた喉に染み込む冷たいビールを想像しながら、熱めのお湯に肩まで浸かりました。
もう少し、もう少しだけと、いつもより長めに入っていると喉が渇いてきたのに気付きました。


「もうそろそろ上がろうか」


そう思って、湯船から上がった時のことです。

立ちくらみのような感覚と急な怠さが襲ってきました。少しのぼせたかもしれない。ふらつきながら冷房のきいた部屋にもどると、だんだんと気分も悪くなり、しまいには手足が痺れて立てなくなってしまいました。呼吸もだんだん浅くなり、視界が狭まるのがわかりました。


脱水症状です。

幸いにも10分程度でおさまりましたが、手足がだんだんと強張り呼吸がしづらくなる過程は、とてつもない恐怖を感じるものでした。症状が落ち着き、水をゆっくり飲みながら振り返ってみると、疲労や水分不足、長風呂が症状の原因だったように思いました。


「心頭滅却すれば火もまた涼し」とは言いますが、お風呂での我慢のしすぎには要注意です。入浴時間もお湯の温度も、何事も「好い加減」を大事にしなければいけないな。冷えたビールを尻目に反省する夏の夜のひとコマでした。



2017.7.12

belowlasi-wh-500.jpg第182話 武井 広機 Takei Kouki





「きっかけは幼馴染の…」



私は元々、かなりの人見知りでした。

しかし大学の4年間でその壁は取り払われ、人と話す楽しさを知ったのです。

そのきっかけとなったのが、仲の良い幼馴染が始めたアルバイトでした。

彼が始めたアルバイトは、千葉県の某テーマパークでのスタッフの仕事でした。


彼は昔からそのテーマパークが大好きで、上京するや否や面接を受け、見事に採用されました。そして憧れの地でアルバイトを始めたのです。


それから2〜3ヶ月した頃。


「武井も、やらない?」


その一言で、私は大きく変わりました。


興味本位で面接を受け、気が付けば派手な色のコスチュームを着てテーマパークの表舞台に立っていたのです。


平日でも何万人とお客さんが訪れ、従業員だけでも数万人といる園内。
従業員とお客さんで大混雑し、常にすし詰め状態です。

そんな人で溢れる園内でしたが、このアルバイトを通し、多くの人と出会いました。

このテーマパークでは、人と人との繋がりを大切にしているため、お客さんに対し「いらっしゃいませ」とは言わず、「こんにちは」と言います。
これは、挨拶から入ることで自然と会話に繋げ、コミュニケーションを取りやすくするためです。

私も、率先してお客さんに声をかけていました。
そんな行動がいつの間にか、人見知りという壁を無くしていました。


テーマパークという独特の雰囲気があるためか、「こんにちは」と始まった声かけが予想だにしない会話に続きます。

「このコスチューム、暑くないですか?」
「お兄さん、何歳なんですか?」
「ぶっちゃけ、お給料いくらなんですか?」


そんな人との出会いが多い4年間を過ごし、 ”人と話す楽しさ”を知りました。


思いもよらぬ幼馴染の一声で、がらっと変わった私。

その幼馴染に、感謝しています。





2017.7.4

wallpaper-train-photo-08.jpg第181話 本田 真大 Honda Shindai





「あだ名」



ご縁のある高校にお邪魔して坐禅の指導や仏教の授業をする機会をいただいています。

何をするにも元気な高校生に毎度圧倒されっぱなしですが、私の中でとても有意義な時間です。

いつからか私は生徒から「けいすけ先生」というあだ名で呼ばれるようになっていました。

サッカー選手の本田圭佑さんと苗字が一緒で、顔も似ているからだそうです。


正直、サッカーが下手くそでルールも全然分からない僕にとってこのあだ名は全然ピンときません。

本田圭佑選手についてもあまり詳しくないので、
男子生徒がニヤニヤしながら「今後の進退について教えて下さい!」などと言ってきても笑ってごまかすしかありません。


難儀する事この上ないのですが、かと言って「自分には真大という名前があって、サッカーより音楽が好きで…」などと頭ごなしに訂正する気にもなれません。



うまく言えないのですが、キャッチボールが続かない気がするのです。


私たちの名前はひとつですが、あだ名と同じように「自分」のあり方は決してひとつではありません。


まわりの人との関わり合いの中で、息子としての自分、上司や部下としての自分、親友としての自分など、様々な自分があります。そして「けいすけ先生」も、私にとってはそんな自分の中の1つなのです。


理屈っぽくなりましたが、結局のところ私は、
「けいすけ先生!」とニコニコしながら話しかけてくれる生徒との他愛ない会話のキャッチボールをするのが好きなだけなのでした。




2017.6.22

IMG_1775.JPG第180話 深澤 亮道 Fukazawa Ryodo





「心の塵」




私は掃除が大好きだ。
趣味が掃除と言っていいほど、自分の部屋はもちろん
ありとあらゆるところえおキレイにしたくなる。



先日、お寺を掃除していた時のこと。

「よし!全てキレイにしよう!」

本堂の隅から隅まで掃除をしたくなってしまう衝動に
駆られた。



思い立って始めて2時間が過ぎようとしていた頃、
ハッと気づいた。

「これって、、、キレイにしたいという欲望かな?」

汚いところがあると躍起になり掃除をしている自分が
そこにはいた。
このことを一緒に掃除をしていた大学生のお坊さんに
相談すると、

「修行が足りないっすね!笑」

と、一言。



一応修行をして来た私が、まだ修行に行っていない
大学生に冗談交じりに言われたことが面白く、2人で
大笑いした後、いや確かにそうかもしれないと思った。



この掃除は誰のため?
この掃除は何のため?



自分がキレイにしたいと思ってがむしゃらに掃除を
していた。
つまり、知らず知らずのうちに、私は自分の欲望で
掃除をしていたのだ。



あくまでもお寺にお参りに来た人達が、

「キレイなお寺だな」

「来てよかったな」

と思ってくれる空間を作ることが大事なのだ。
そう思えたとき、フッと心が軽くなった。



人間の欲望は尽きることがない。
そしてその欲望が満たされないと、心というのは
モヤモヤする。



誰かのために。



初夏の昼下がり、
心の塵をまた一つ掃除できた気がした。


2017.6.13

小噺.jpg第179話 西田 稔光 Nishida Shinko





「忙しさ」



 さて、困った。
半年に1回担当が回ってくるこの禅僧小噺、3年間でも書く機会は6回しかない。それなのに、今回に関しては全く文章が浮かばない。
祖父の話を書いてみたりチョコミントアイスの話を書いてみたりしたが、どうもしっくりこない。
Shojin-Projectとしての活動の中では常に新たな出会いや体験があり、日常生活の中にも山あり谷あり、色々な出来事がある。それなのにこうして文章にすることが浮かばないのはなぜだろう?

「忙しそうだね」

 最近、周りからこう言われることがある。自分としては充実した日々を送っているだけのつもりなのに。

 そこでふと、昔憧れたブレイクダンサーが言っていた言葉を思い出す。
“「忙」という字は「心」を「亡」くすと書くから、ぼくは忙しいと言わないようにしている。心なくしてダンスはできないから。”

 私もそれにならって忙しいとは言わないようにしている。しかし、周りから「忙しそう」と言われるということは、もしかすると私はどこか「心」を「亡」くしていた部分があったのかもしれない。
お坊さんもダンサーと同じ。心亡くしてはいい文章は書けないし、人の痛みにも気付けない。
日々の出来事を噛み締め、人生として消化していく。そうして日々の出来事に揺れる心を亡くさないように歩んでいけばきっと、この充実した毎日の中で気付くことはいくらでもあるはずだ。

 私は文章が書けないのではなく、心を亡くしかけていたのだ。

 今回はそんなお話でした。



2017.5.26

30f69699-8810-4a6f-8eb5-34922d8aa653.jpg第178話 久保田 智照 Kubota Chisho





さんぽの極意



 「さんぽ」を始めました。東京の水が合い過ぎたせいか、私の体重は増加の一途をたどるばかり。
気まぐれにスポーツジムに通い、一人暮らしの部屋で筋力トレーニングなんかも始めてみたものの、筋肉が付くばかりで体重はあまり減りません。

 「こいつは、いよいよもって何とかしないといかん」

 そう思い、ひと駅、ふた駅、あるいはそれ以上の距離であっても、時間が許す限りは目的地まで歩くことにしました。ウォーキング・エクササイズというやつです。

 始めたばかりの頃は足首を痛めたり、ひざを痛めたり、あるいは何てことない上り坂で息が切れたりと、運動不足を痛感するばかりであったのですが、この頃は歩き姿が様になってきたように思います。
歩きながら風景を楽しむ余裕も生まれ、歩くことがストレス解消の一手段ともなってきました。
 そして歩きに余裕が生まれてきたせいか、最近では信号に引っかからないような歩き方をするようになりました。この先の信号のタイミングを計りながら早歩きになってみたり、時には小走りも加えています。
 とても充実したおさんぽライフ……しかし、ふと思うことがありました。

 「痩せるためとか、ストレス解消とか、信号で止まりたくないとか……何だかちっぽけだなあ」

 たまには目的なしに歩いてみてもいいじゃないか。

 なあ、わが腹よ。




2017.5.12

kuro.jpg第177話 佐粧 博史  Sasho Hakushi





お恥ずかしながら



出かけるときに、その日の服装がばっちり決まって気分良く出かけるときってありませんか。先日、ばっちり決まった私服に身を包み気分良くとある総合病院に行きました。



私が通院した大学付属の病院は綺麗でした。

綺麗で高級感ある内装、個人的にばっちり決まった私自身。

どこか自分に浸っていたのでしょう。



診察も終わり待合スペースの椅子に腰かけようとしたその時、「ドスン」



「いて〜」



三席一組の椅子の目測を誤り、空中に着席。もちろんそこに椅子は無し。



私は、床に尻もちを突いた訳です。



外の景色を眺めながらショルダーバックを椅子に置き、椅子も確認せず恰好つけて腰かけた末路が、地べたを這いつくばる私の情けない有様でした。



さらにここは、病院。

大きな物音を聞きつけた数人の看護師さんが押し寄せ、整形外科でも受診をすすめられました。



ああ、なんという恥ずかしさ。恰好つけていたばかり。



幸いケガもなく、ご心配をおかけしましたと、一礼。そそくさとその場を後にしました。



自身の事ばかりに囚われず、その場をしっかりと確認しなければならないのだなと改めて思う一幕でした。

私は調子に乗るタイプなので、その都度その都度足元を見ていかなければと。

でも、喉元過ぎればなんとやら、また同じようなことをしてしまうのだろうとも感じました。



お尻痛かったなぁ〜。




2017.4.28

提灯.JPG第176話 江刺 亮専  Esashi Ryosen





懐かしい味



 修行時代、毎年この時期になると決まっておこなっていたことがあります。
それは、柿の葉集め。

 なぜ柿の葉なのかと疑問に思われる方もいるかもしれませんが、実はこの柿の葉は大切な食材なのです。春先に新しく出てきた柿の葉はとても柔らかく、天ぷらにするととっても美味!!修行当時はたまに食卓に出るこの「柿の葉の天ぷら」が私にとってのごちそうでした。

 他にも、つくしやフキノトウなど、その季節の味を楽しむことができていた修行時代。今考えてみればとても贅沢な時間だったと思います。

 今では自分の手で何かを収穫し、それを調理して食べるということがほとんどありません。しかも、たまにスーパーで見かける季節の食材はなかなか一人暮らしでは手の出しにくいお値段…。都会では季節を味わうのにもお金がかかるのだなと、少し寂しい気持ちになりました。

 今となっては、ほとんど食べることもなくなった「柿の葉の天ぷら」。修行時代にいただいていなければ、私はその味も、季節感も感じること無く過ごしていたことでしょう。

 この時期を迎えると、私は懐かしい味を思い出し、何気なく身の回りにあるものが、いかに貴重で贅沢なものなのかということを感じるのです。







2017.4.20

DSC_0030.JPG第175話 伊藤 正法  Ito Shobo





春を楽しむ瞬間


 4月になると、生命の息吹を強く感じます。

 この時季は冬の厳しい寒さを耐え、春の暖かさに呼応するように色とりどりの花が咲き誇り、特に桜は私たちの目を楽しませてくれます。
 テレビをつければ、朝のニュースや情報番組で桜前線の動向や見頃、実際にその様子を伝えてくれます。
桜といえば花見ですが、皆さんはどのような楽しみ方をしますか?花を愛でながら食事をいただいたり、腰を据えてカメラで綺麗に咲いている様子を撮ったりするかと思います。「槿花一日の栄」ということわざの通り、花の命は儚く終わってしまいます。それだけに、特に蕾の時や咲いている時には生命の力強さを感じることが出来ます。

 「花の寿命とは?」

 ふと、そのようなことを考えました。

 何気なく歩いていると道ばたには、たくさんの花びらが何気なく落ちていました。あれだけ元気に咲いて私たちの目を楽しませてくれていたのに、散ってしまったら咲いていた時と比べてあまり見向きされません。どちらかと言えば、掃除する回数を増やす邪魔者になりかねません。そう考えたときに、花は咲き誇り散ったら終わりなのか?散ってもなお寿命は続くのか…?

 春の木漏れ日の中、道を歩きながら考える一コマでした。





2017.3.3

佐田禅僧小噺.jpg第174話 佐田 陸道  Sada Rikudo




呼吸法を学ぶ時代の子どもたち


 先日、文科省が定める学習指導要領の、次期改定案がニュースで紹介されていました。
目を引いたのは、ストレスを軽減する技術の習得を目的として、呼吸法の指導を盛り込むという案です。

 想像してみました。

 自宅の部屋の隅、一人呼吸法でストレス解消に取り組む子どもの姿。

 それはいささか異様な光景にも思われます。

自分の子ども時代を鑑みるに、野球や鬼ごっこ、チャンバラ…、体を動かしてウンと遊んでいれば、子どもの心などは大体満たされるものだと思っていたのですが、そうではないのかもしれません。

 超高齢社会の到来や、世代間の経済格差の増大、社会保障制度の不透明感など将来への不安感を抱かせる報せは、日々の新聞やニュースなどで否応なく耳に入ってきます。

 改めて考えてみますと、現代社会の空気感は、子どもの健やかな情緒を育むには、やや荒涼としすぎているようにも思われます。

 成程、坐禅やヨガ、マインドフルネスなどのストレス軽減法は、現代人にとってこれから益々必要になってくるものでしょう。子どものうちに技術として伝えておくことは、これは善し悪し関係なく必要なことです。

 それでも、学校教育の中で、子どもにストレス軽減法を教える必要のある社会は、私には少し寂しく思われるのでした。




2017.2.14

禅僧小噺用画像(坂田).JPG第173話 坂田 祐真  Sakata Yushin




呼応


 先日、マンションで1階から上がるためにエレベーターに乗り込みました。
 奥にはランドセルを背負った小学生の男の子が既にいて、私は男の子の前に背を向けるように立ちました。

 他に乗る人もいないようだし、目的の階のボタンを押そうと手を動かしたその時です。

 「何階ですか?」

 指はもうボタンを押す寸前。

(まさか尋ねてくれるとは!…せっかくの気持ちを無駄にしないように!)

 私は驚きとともに、反射的にさっと手を引っ込めました。

 「5階をお願いします。」

 「はい!」

 男の子は5階のボタンを押してくれました。
 奥にも低い位置にボタンがあるのです。

 そして3階になるとエレベーターが止まり、男の子は私の横をぬけて降りていきました。

 (このままじゃいけないな。何か一言言わないと…)

 「どうもありがとう」

 私はそう声をかけると、男の子は止まって振り返り、

 「バイバイ!」

 と、手を振ってくれました。

 ドアが閉まり、エレベーターは再び上へ向かっていきます。

 (良かった、あの子の気持ちにも応えられた。そしてあの子も「ありがとう」という言葉に応えてくれた。なんだか清々しい気持ちになれたなぁ。)


 振り返ってみれば、何の変哲もない、どこにでもあるような、小さな男の子との些細なやり取りです。
 でも実はその中で、お互いに「相手への想いを察知し、こちらも想いを返す」ことができていたのでした。




2017.2.14

wallpaper-train-photo-08.jpg第172話 本田 真大 Honda Shindai




スポーツと坐禅


 先日、第89回選抜高校野球大会の出場校が決定しました。まだ二ヶ月以上先の事なのに楽しみで仕方ありません。中学校の時に私は野球部だったからです。


 残念ながらあまり上手くなかったので、高校では心機一転、仲の良い友達とバンドを組みました。ギターを担当しましたが、こっちもあまり上手くありませんでした。(笑)


 バットもギターも、上手くやろうと思えば思うほど、上手く扱えませんでした。
 こういう時は大抵の場合、プレイしながら、心の中の自分の口数がとても多くなります。


 「次の球はカーブが来る?いやストレート?」
 「次の間奏でミスしたらどうしよう…」
 「お願いだから俺の体ちゃんと動いてー!」


 そんな私でも、ごくたまに実力以上のパフォーマンスが出来る瞬間がありました。
 そういう時は決まって、プレイに没頭しきっている時です。普段口数の多い自意識の過剰な自分は静かになり、存在すらなくなります。


 騒がしい「自分」を一旦横において、今この瞬間に集中すること。
 坐禅に通じるものがあるなぁと、ふと思いました。



2017.2.3

DSC_8157.jpg第171話 深澤 亮道 Fukazawa Ryodo




仲間

 先日、福井県にある大本山永平寺に一週間の研修に行ってまいりました。一昨年の10月に永平寺での修行を終えた私にとって久しぶりの修行道場での生活でした。

 永平寺をはじめ禅寺での修行は、朝決まった時間に起き、顔を洗う。そして坐禅、お勤め、掃除、食事、入浴、用を足すこと・・・日常全てのことが修行となります。大学を卒業してすぐ修行に行った私にとって、最初は全てのことについて行くのに大変で、とても辛かったのを記憶しています。

しかし、そんな辛い思いを乗り越えられてきた。その背景には、仲間の存在がありました。

(辛いのは私だけじゃない。一緒に唇を噛み締め修行の厳しさに耐えている仲間が隣にいる。)

そんな仲間の存在を考えた時に、私が一人修行をしているのではない。全ての人の関わりの中で修行させていただいている。心からそう思えたからこそ、辛い修行の日々を乗り越えられたのだと思います。


 修行道場での生活を終え1年。今でも切磋琢磨し、修行を続けている後輩たちを目にし、あの時のことが懐かしく思えたのでした。





2017.1.10

IMG_1676.jpg第170話 西田 稔光 Nishida Shinko




棟梁さんのお話


 皆さん、あけましておめでとうございます。

 先日、法事の手伝いのために実家のお寺に帰った日のことです。

 その日の法事に、お寺を建ててくれた大工の棟梁さんが参列されていました。職人気質の棟梁さんは昔から恐くもあり、私の中で「かっこいい大人」の一人でもありました。しかし久々に会った棟梁さんは、背中が曲がって一気におじいちゃんになってしまったように見えました。

 すると棟梁さんはそんな私を見透かしたように
「背中曲がったんね?って言われるけど、曲がるべき方向に曲がってんだからなんの問題ありゃしねえよ!反ったんじゃ困るけどな!」と笑い飛ばしていました。

 一瞬呆気に取られた私でしたが、大工さんという職業を考えると納得できました。大工さんは木材が年月とともに縮んだり曲がったりすることも計算して建物を建てるそうです。さらには木が生えていた土地や向いていた方向まで、木材の一本一本に個性まで見極めることが求められます。
そんな仕事をずっとしてきた棟梁さんさんだからこそ、自分の体が変わっていくことは何も不思議ではないし、当然のことと笑い飛ばせるのかもしれません。

 歳をとっていくことを嘆くのではなく、年輪を重ねてどっしりと構える棟梁さんは、やはり私にとっての「かっこいい大人」でした。




2016.12.21

kuro.jpg第169話 佐粧 博史  Sasho Hakushi





夜空を眺めて


 自宅の駐車場に車を停め、荷物を持って車から降りました。
ふと見上げると、雲一つない冬の夜空に満月が煌々と輝きを放っていました。

(綺麗な満月だなぁ。)
都心でも満月の光がこんなにも綺麗に見えるのかとしばし眺めていました。

すると、後ろから足音が聞こえたのです。振り向くと、犬の散歩をしている30代位の男性が歩いてきました。

私のことが視界に入っていたのでしょう。
「ほんとうに綺麗な満月ですね。」

私は「そうですね…ほんと綺麗ですね。」

ほんの数秒立ち止まり、満月を眺める二人と一匹。

「では」と一言いいながら歩き出す彼らを、会釈で見送り自宅に入りました。


(そういえば、初めて会う人と必要以上の言葉を交わすことって最近無いな。)


最近の社会は、防犯のためにも他人と必要以上に関わりを持たないかたが多いと思います。


でも初めて会った人と言葉を交わし、その場を共有するってなんかいいなと改めて感じました。
身体は寒いけど、心は少し温かくなりました。




2016.12.6

提灯.JPG第168話 江刺 亮専  Esashi Ryosen





必要なもの


 今まで、修行道場やお寺での生活で、常に人と一緒に過ごすことが当たり前だった私ですが、今年の始めに東京で一人暮らしを初めて、もうすぐ1年。

 当初は、ほとんど物がなくても不自由なく生活していましたが、最近、もっと快適に過ごしたいという欲が出てきてしまったみたいです。

「あれがあると便利だな。これも欲しいな。」

 部屋で過ごしていると、そんなことばかり考えるようになってしまいました。
気づけば、引っ越した当時よりも確実に物が増えている…。

 本来、お坊さんの持ち物は「三衣一鉢」と言われています。三衣とは、お坊さんが身に着ける衣で、一鉢とは、托鉢をして食事をいただくための器のこと。
それだけのもので昔のお坊さんたちは日々生活をしていたことを考えてみると、今の自分の生活にはどれだけ余分なものがあるのだろう…。

自分の部屋を見渡しながら、「これ、本当に必要だったかな。」と考えてみたとき、意外と余計なものを欲しがってしまっている自分に気づくことができました。




2016.11.25

梅雨.jpg第167話 伊藤 正法  Ito Shobo





体感時間


 「七年ぶりに早目の冬将軍の到来です…。」
 ある日の気象に関する報道は、その言葉から始まった。

様々な報道機関が連日酷暑を伝えていたと思ったら、いつのまにか早い冬将軍の到来を伝える報道を発信していた。

「あれだけ暑かったのに、あっというまだなぁ…」
 そんなことをふと思った。

 私が報道を通して改めて考えたのが、人の体感時間である。

「楽しい時はあっという間」そんなことがあるだろう。例えば、待ちに待った時間がやっときたと思ったら、いつの間にか終わりを迎える。特別に時間の流れが変化したわけではない。しかし、そこには何らかの変化が生じている。

 では、楽しい時間とそうでない時間において一体何が違うのだろうか。

 楽しい時は、一分一秒が充実している。そうではない時は逆に、時間の長さが永遠にも感じることがある。それはつまり、「私」の様々な感情や価値観が介入し、時間的感覚を変化させているのだ。誰しも楽しい時間は大切だし、そうではない時間はあまり望まない。しかしながら、両方の出来事が起こり続けていくこともまた、現実である。

 そんなことをふと考えていたら、見ようとしていた番組がとっくに終っていた…。



2016.11.9

田中 柿.jpg第166話 田中 仁秀 Tanaka Jinshu





考える力


 朝起きて、支度をし、家から出て最寄りの駅まで歩き、そして電車に乗る。
満員電車に揺られて、やっとのことで電車を降り、改札を出て歩き出す。

 そんな繰り返しの日々を過ごしていたある日、
「最近考えて行動してないな・・・。」ふとそう思った。

忙しさにかまけて、立ち止まって物事を考えていただろうか・・・
いや、考えているはずなのだけど・・・なにか、こう・・・まるでゾンビみたいな・・・

 そんな気持ちが湧きあがり、私は歩きながら周りの雑踏を“意識して”見てみた。
笑っている人、無表情な人、疲れてそうな人、
色々な人がいるなぁ。

 では、私はどうだろう。
そして、これから何をすべきなのか。

そんなことを思い巡らして、一日が始まったのだった。




2016.10.21

DSC_0167.JPG第165話 田代 浩潤 Tashiro Kojun





言葉を離れて


 電車の中や街は文字で溢れている。ドアの上やビルの壁面で電光掲示板は何やらピカピカ言っている。
 率直なところ気に障るのだが、でも光の文字に限らず、紙に印刷された文字も視界に入れば意識するともなく拾ってしまう。言葉が他(ひと)の頭の中を攪拌してくるのだ。頭の中でこねくり作業が始まる。

 だからか、休日は目にも耳にも静けさが欲しくなり、海を眺めに出かける。海の上には文字は無いし、海は言葉も喋らない。眺めていると、頭の中で何やら浮かんでくるが、それは間もなく流れて消え、また浮かんでは消えていく。それがとても心地よい。絶え間なく言葉に掻き乱される人手による場とは違い思考は野放しになる。その自由さが手に余るのか、普段あんなに偉い思考は自己主張をやめて大人しくなる。

 普段、何かを考えようとしていたり、文字なり人の話であったり、何か言葉を知覚したりすると、頭の中で言葉が始まり思考の線を描き出す。
でも、言葉を捏ねなくても自分は色々知覚し、色々と感じていると思う(それは大抵、言葉が立てる思考の音に掻き消されていると思うのだが)。

 筋肉だって弛緩しなきゃ凝ってしまう。頭は身体の中で高い身分の様子だが、筋肉と同じく同じ肉体の一部であって、どちらが上と言うことも無い。むしろ頭が偉いと思っているのは、紛れもない、この頭なのだから困ったものだ。

 時には思考以前の、物事を解釈で捻じ曲げることないままに、何かを思っては放流し、また思っては放流して、ちぎれた海草のように感覚を漂流させる時間が欲しいものだ。

 最近、週末はそんなことを思う。



2016.10.11

佐田禅僧小噺.jpg第164話 佐田 陸道  Sada Rikudo





山とお山


 山のてっぺんで、「ヤッホー」と叫ぶ人は本当にいるのでしょうか?
私は趣味でちょくちょく山に登るのですが、未だに見かけたことはありません。」

 私自身、毎回山頂に着くたびに
(言ってみようかな…)
一瞬思うのですが、つい気恥ずかしくて止めてしまいます。

 考えてみれば、日々の私たちの生活の中で、全力で声を出す場面というのは余りないように思います。
私が最後に大きな声を出したのは一体いつでしょうか。
それはきっと今から九年前、修行時代の頃だったろうと思うのです。


 曹洞宗では、福井の永平寺と鶴見の總持寺の両本山を「お山」と称します。
私が修行した「お山」、大本山總持寺では、入門したての修行僧は、先輩から話しかけられた際に、全力で声を張り上げて応える慣わしがありました。

「声帯が鍛えられて読経に厚みが出る」「気迫で迷いを断ち切る」など、その意義については諸説ありますが、ともかく同期の修行仲間たちと一緒に、声を張り上げていた日々が確かに私にもあったのです。

 毎日、力いっぱい声を張り上げていた思い出の中の私。
当時の自分を振り返ってみると、何だか一寸うらやましくも思えるのでした。






2016.10.5

禅僧小噺用画像(坂田).JPG第163話 坂田 祐真  Sakata Yushin





誰かがいるという安心感


 先日、茨城県にある筑波山に行き、翌日には筋肉痛になるほど歩き回ってきました。

 登り始めてから麓に戻って来るまで約5時間半。
慣れ親しんだ日常から離れ、山道を歩いてみると、いろんな心境の変化を感じました。

 例えば、自然が気持ち良いとか、景色が綺麗とか。心躍るようなポジティブな感覚です。
しかし反対に、ネガティブな感覚もまた、度々見え隠れしたのです。

 歩き続けて足が疲れてくると、まだ辿り着かないのだろうか、と重苦しさがつのり、気温が下がって霧が深く濃くなってくると、肌寒さと共に周りが見えないことで不安が膨らみました。

 だんだん心細くなり、大きくなっていくネガティブな感覚。

 そんな気持ちを和らげてくれたのは、時々すれ違う同じ登山者の人たちでした。
 顔見知りではない、ただ一瞬すれ違っただけの他人。

 それでも、誰かがそこにいて、一言「こんにちは」と挨拶を交わしただけで、不安がおさまり、ほっと安心できたのです。

 慣れない山道では、たった一人の人でも、その存在がとても頼もしく感じられ、心が救われます。

 日々の暮らしは、人、人、人、で溢れ、人に疲れたり意識すらしないようになることもありますが、この日の登山では、誰かがいるという安心感、そして人の存在感が持つ力を、身に沁みて実感させられたのでした。




2016.10.4

wallpaper-train-photo-08.jpg第162話 本田 真大 Honda Shindai





日曜日の朝


 日曜日の朝、山手線に乗ると、目の前の光景に面食らいました。金髪の大学生らしき男性が座るべき座席に靴のまま足を上げて寝ていたのです。7人掛けの座席をほぼ一人で占領している状態でした。

迷惑だなぁ…

 品川から新宿に向かう途中だった私は、空いていた彼の足元の席に腰掛けました。酔っているであろう男性は完全に熟睡していて、私の荷物が足に当たろうとも起きる気配は全くありません。電車が駅に着く度に、車両に乗り込んでくる乗客は皆一様に同じような嫌悪の表情を浮かべ、その場から距離をとります。

 耐えきれず、私は強めに彼の足を叩き、声にならない声と共にこちらに視線を向ける彼に声をかけました。

「あの。だいぶ迷惑なんですけど。」

 少しの間をおいてようやく自分の置かれている状況を把握した様子の彼は、怒るでも、謝るでもなく、苦笑いを浮かべ何か呟きました。丁度電車が止まり、その言葉が駅名を告げるアナウンスにかき消されてよく聞き取れなかった自分をよそに、彼は床に転がった鞄を手に取っておぼつかない足取りでホームに降りて行きました。

 ゆっくりと電車が進み始め、広くなった座席を見て、ようやく自分の荒くなった呼吸と力んだ肩に気がつきました。
後悔の念は最後に遅れてやってきました。

 公衆マナーを守ることは、公共スペースでみんなが気持ちよく快適に過ごすために必要不可欠です。しかし同時に、それは互いへの思いやりがあってはじめて成り立つものです。思いやりを欠いた公衆マナーは、他人の揚げ足取りの材料にしか成り得ません。
 彼のしたことは迷惑行為に変わりありません。しかしまた、彼の事情を私が知ることは出来ません。彼に限らず、他人のことを完全に理解することなど出来ません。だからこそ想像力を働かせて相手を思い遣ることこそ私が最初にすべきことだったはず。

 私が彼に対してとった行動が相手への思い遣りから出た行為なのか、単なる怒りの感情からとった行為なのかは、他ならぬ私自身が身にしみて分かっているのです。

我が身の至らなさを痛感した日曜日の朝でした。



2016.9.15

DSC_8157.jpg第161話 深澤 亮道 Fukazawa Ryodo





だれかのために


 「なんのために生まれて、なにをして生きるのか

 わからないまま終わる、そんなのは嫌だ!」


先日、台風被害があった岩手県の宮古市という地域にボランティアで行って参りました。

私が行った地域は、報道はあまりされていませんが、複数の橋、市内への主要道路の陥落、そして多数の家屋に川の濁流、土砂が流れ込むという被害を受けていました。

人的被害はなかったものの、ボランティアの数が圧倒的に足っておらず、2週間以上経った今でも安心して住める状況ではありません。

私も僅かな力ながら、床下に溜まった泥出しをお手伝いしました。

丸2日かけてようやく1軒のお宅が終わるような状況。

もっと早く、少しでも効率よく!

なかなか進まない作業の中、躍起になっていたように思います。

「本当にありがとう。これよかったら持っていって!」

本当に苦しいのはそこに住んでいる人のはずなのに、私たちを気遣い温かい言葉と、差し入れをいただきました。その時、微力ながらも人の役に立てたことに言いようのない喜びを覚えました。


冒頭の一文は、皆さん1度は聞いたことがあるでしょう、ご存知「アンパンマンのマーチ」の一節です。子どもの時はなんとなく歌っていましたが、大人になって改めて歌詞を見ているとその内容の深さに驚かされます。

私の中で、常に考えさせられる言葉ですが、なんとなく今回のボランティアでだれかのために行動できたことが、一つの答えなのかなと感じさせてもらいました。


2016.8.23

IMG_1676.jpg第160話 西田 稔光 Nishida Shinko




数字


 最近、健康のためにトレーニングをするようになった。今日は腕立て伏せが○回できて、腹筋が○回できた、今日は○km走れたぞ、と優越感に浸る。しかしそんな中で、ふと思う。

 はたして自分は、体を動かしているのだろうか、それとも数字を動かしているのだろうか。
 メニューをこなした回数、走った距離、消費したカロリー。
自分の体そのものより、数字の動きにばかり気をとられている。

 トレーニングだけじゃない。勉強、仕事、健康まで、何をするにも数字、数字、数字…。表れた数字に喜ぶこともあれば傷ついて落ち込むこともある。
実際のところ数字に表されることは大切で、プラスに働くことはとても多い。

 「数字が全てじゃないよ。」と言えばきれいごとになるだろう。ただ、数字に表せるのは物事の一部だということを忘れてはいけないと思う。収入や値段、点数や順位が仕事や人間そのものの価値ではない。

 禅宗にはこんな教えがある。

 「月を差す指を見るのではなく、月そのものを見なさい」というものだ。

 月というものを知るために、差している指は目印としては大切だけれど、それが一番重要なことではない。果たして数字は「指」か「月」か…。
 だから「数字」と「私」の丁度いい距離感を知らなければならないのだと思う。
 無視せず縛られず。

 ビルに囲まれた狭い空を見上げながらそんなことを考える、25歳の夏。


2016.7.22

30f69699-8810-4a6f-8eb5-34922d8aa653.jpg第159話 久保田 智照 Kubota Chisho




ラーメン小噺


 先日、ふと思い立って、ラーメンを食べに行きました。やや混雑している店内で、頼んだラーメンが来るのを待っていると、一人のお客さんが席を立ちました。彼は自分の食べた器をカウンター席の目の前にある棚に上げて、さらに台を布巾で拭いてから店を出ていきました。

(なるほど……この店では器を返して、台を拭いてから出るのだな)

 最近のラーメン屋さんには、お店独自のルールが存在する場合もあるので、周囲の状況チェックは欠かせません。しばらくすると、私の頼んだラーメンがホカホカと湯気を立てて運ばれてきました。店内も混雑していることですし、なるべく早く食べようと思いました。

「いただきます。」

 出てきたラーメンをズゾゾーと平らげ、締めのお冷やをグイッとあおった後、私は先ほどのお客さんがそうしたように、器を目の前の棚に返し、布巾で台を拭いてから席を立ちました。

「ごちそうさま。美味しかったです。」

 混雑していたとはいえ、少しせわしない感じで食べてしまったな……そんな思いを抱きつつ店を出ると、私の後ろから女性の店員さんがやってきました。あれ、忘れものでもしていたかな、と思っていると彼女はこう言いました。

「本日はありがとうございました!またお待ちしています!」

 私は面食らいました(ラーメンだけに)。わざわざそれを言うために店の外まで出てきてくれたなんて、思ってもみなかったのです。

 自分の使った器や席を片付けてから店を後にするお客さんと、それに対して接客に徹頭徹尾礼を尽くす店員。そこには店と客という関係を超えた、人と人との素晴らしい信頼関係があるように感じられました。

 そのおかげで、ただラーメンを食べに来ただけなのに、私はすがすがしい気持ちで店を出ることができたのです。そして次にここへ来た時には、ラーメン大盛りでトッピングに海苔もつけよう、そう思いながら家路についたのでした。




2016.7.8

kuro.jpg第158話 佐粧 博史 Sasyo Hakushi




小さな愛らしい先生達


 夏の休みの日、実家での集まりがあり久しぶりに親族が顔を会わせました。

 私は双子の姪っ子たちのゴムボールをおもちゃ箱から取り出して手持ち無沙汰を紛らわそうとしていました。

 トコトコトコ、双子のAちゃんが近づいてきて一言

「ひろにいに(私の愛称)、それはBちゃんのだから借りるときは、ちゃんと貸してって言わないとね。」

「お、おぅ。そうだったね、分かったよ。」

そそくさと、Bちゃんのところに行き

「これ貸してね。」と言うと、

「うん、いいよ。使い終わったらちゃんと元の場所に戻しておいてね。」

「お、おぅ。ありがとね、使い終わったら戻しておくね。」

 大人になると、幼少の頃に教えて貰った当たり前のことも、まぁいいだろうと勝手に思ってしまうことがあります。ましてや関係性が親しくなればなるほど、そういう事は疎かになってしまうのかもしれません。

 意思表示や感謝の気持ちを言葉にして一言交わすことの大切さを、幼い二人の「先生」がしっかりと私に再確認させてくれたのでした。



2016.6.28

梅雨.jpg第157話 伊藤 正法  Ito Shobo




梅雨


 雲を見上げれば、そこにはたくさんの雲があります。

「この雲はこれからたくさんの雨を降らせるのか」と思うと、何だか憂鬱な気分になります。と言うのも、特に梅雨の時期になると空気はべたべたするし、身体に倦怠感を感じるようになります。それだけでも気分も滅入ってきてしまいます…。

 しかし、「梅の実が熟する時期に降る雨」とも言われている梅雨。一方では「恵の雨」と受け取ることが出来ます。これから夏に向けて気温が上がる中で、農作物を始めとする全てのものに対して多大な恩恵を与えてくれます。

 同じ「梅雨」でも、感じ方や物の見方によって全く違うものが見えてきます。そんな中で、「これは良い、あれは悪い」という分類に分けてしまいます。
 しかし、その心の働きをどこかで後ろめたく感じることがあります。しかし、そうではなく、その心の働きをそのまま受け止める・認めてあげる。そんなことが大事なのではないかと思いました。

 梅雨のじめじめで身体に倦怠感を感じることも、恵の雨に感謝することも大事である。雲を見上げた時にそう感じました。


2016.6.17

提灯.JPG第156話 江刺 亮専  Esashi Ryosen







 ある晴れた日の朝。鼻歌交じりに洗濯をしていると、洗面所の隅から突然ある物体が現れました。

 長い触角。黒光りする体。変に刺激をしたら今にも飛びかかってきそうな様子で洗面所の中を我が物顔で歩き回っています。

 東京での一人暮らし。いつか出るとは覚悟はしていたものの、いざ目の当たりにすると、私には為す術がありませんでした。結局、私は洗面所の扉をそっと閉め、とりあえずそのまま出勤しました。

 帰りに、対策グッズをいろいろと調達し、意を決して洗面所の扉を開けました。すると、黒光りしていた体は仰向けになり、激しく動いていた触角はその動きを止めてピクリともしていません。

「あれっ?動かない」

 そのまましばらく様子を見ていましたが、どうやら本当に息絶えてしまっていたようでした。

その光景を見て、私は思わず「あぁ、よかった…」と感じました。

 自分で手を下さなかったことに対する喜びはもちろんですが、それ以上に苦手な虫が息絶えていたことに対して、素直によかったと思ってしまったのです。

 おそらく、カブトムシやてんとう虫だったら同じ状況でもそんなことは思わなかったかもしれません。その虫たちと、ゴ○ブリに何の違いがあるのか…。そんなことをふと考えてしまいました。

2016.5.31

田中 柿.jpg第155話 田中 仁秀  Tanaka Jinshu




支え


 今年のゴールデンウイークは、久しぶりに生まれ育った長野県のお寺に戻りました。「東京の喧騒から一旦離れて、ゆっくりしよう。」そんな思いでの帰省。

 「折角だから、ゆったりと本でも読んで夜を過ごそう。」

 そう思い立ち、夜十時くらいから読書を始めました。

 どれくらい時間が経った時でしょうか。

 ブロォォォォォ。

 !!

 バイク音が聞こえて、私は本の世界から「はっ」と我に返りました。
 時計を見ると、深夜二時三十分。

 こんな時間に誰だろう。しかも、家の前で止まったぞ。

 窓から外を覗いて様子を見ると、新聞配達の人でした。

 こんな夜遅くに・・・

 東京に生活圏を移してから、めっきり聞くことが減った音に新鮮さを感じると共に、新聞配達の方に対して尊敬の念が湧いてきました。

 (新聞を届けていただいて、ありがとうございます)

 人の支えがあって生活が保たれている。それを再認識した出来事でした。




2016.5.17

DSC_0167.JPG第154話 田代 浩潤 Tashiro Kojun




ジレンマ


 この間、テレビで大食い王者が一堂に会した番組をやっていました。結構有名どころが出ていて、大食い王者もこんなにいるのかぁと感心しました。大食いあるあるや、テレビが大食いをこぞって扱った大食いブーム時代のギャラのことや、よく食べさせられたメニューのことなどを語っていました。彼ら歴代の王者には早食いが得意な人やら、水を一回に6リットル飲んで胃を拡張させるなどのトレーニングを積んでいる人もいるそうで一見普通の人たちですが、話を聞いていると個性が突き抜けていました。


 番組中、彼らが過去に参加した大食い大会の映像が流れます。汗だくになってラーメンを掻き込んでいる映像や、皿に口をつけてカレーライスを流し込む映像など圧巻で、落ちることを知らない掃除機さながらの吸引力に私はまたまた感心してしまいました。そして、番組の最後は歴代王者VS現世界チャンピオンで寿司の早食い対決が行われました。結果は歴代が1分間に26貫に留まるところ、世界チャンピオンは40数貫完食して圧勝。寿司を2貫ずつ休まず口の中に吸い込んでいく様はまさにすしざんまいといったところで、チャンピオンの通った後には何も乗っていない皿だけが残されていたのでした。


 やっぱりすごいと思いましたし、才能だと思いましたが、彼らが食べた物を作った人って一体どんな気持ちなのでしょう。自分だったらたぶん嫌だろうなぁ、そんなことを考えていたら、私が学生時代ビュッフェレストランでバイトしていた時、大皿に盛られた、しかも殆ど手のつけられていない大量の料理をドサドサとゴミ箱に捨てていたことを思い出しました。当時は嫌な気持ちでした。しかしそれが仕事でした。


 大食いも一つの傑出した才能ではあるものの、テレビの向こう側はそれを見ていい思いをする人ばかりではないでしょう。大食い王者たちもきっとジレンマを抱えていると思います。世の中には色んな仕事があり、その数だけ、もしくはそれ以上に色んなジレンマを人は日常抱えていることでしょう。そしてそれも生きるということなのでしょう。大食い王者を眺めていてそんなことを思いました。




2016.4.28

佐田禅僧小噺.jpg第153話 佐田 陸道 Sada Rikudo




人が一番充実する時


 先日、古い友人と食事をしました。
彼は高校を出てから、建物の内装の仕事をしています。

 話の中で、彼の口からこんな言葉が出ました。
「壁にビスを打ち込んでいく時間が一番好きだな」
片手に持っているナントカという機械の中に、口に加えたビスを次々に詰めながら、テンポよく壁に打ち込んでいく作業について彼は語っていました。

「タン・タン・タン」
「その瞬間が夢中になる。一番好きだ。」

(そういえば…。)
 一つ思い当たることがあります。
 私は趣味でずっと武道を習っていますが、
 「闘っている時間」が一番充実しています。

 身も心も一つのことに没頭する時間。

 例えば弓道家が的に向かって弓を引きしぼる瞬間。
 例えば陸上選手がトラックを駆ける十数秒間。

「そのこと」だけに全て没頭する時間。

 そんな瞬間の中にある時、人は一番充実しているのかもしれません。

 そしてそんな瞬間は音楽や美術などあらゆる人の営みの中にあって、さらには仕事や日常の生活の中にもあり得る。

 そして誰でもその瞬間に入ることができる。

「三昧(ざんまい)」、そんな禅の言葉を思い出しました。


2016.4.15

禅僧小噺用画像(坂田).JPG第152話 坂田 祐真  Sakata Yushin




イス破壊事件


 少し前、オードリーというお笑いコンビがイスを壊してしまった出来事が話題になった。

 2人はテレビ番組でイスの宣伝を任されており、商品説明やアピールをしていたのだが、次第に行動が激しくなり、悪乗りし、最後にイスが壊れてしまった。
 そしてその動画や話題は瞬く間に世間に広まり、「面白い!」「さすが!」「よくやった!」という賛辞とともに、多くの人に知られることとなった、という話である。

 この一連の話題に対する私の心境は複雑だ。

 オードリーの2人は確かに面白いし、私も彼らのファンである。しかし、面白いのと、モノを粗末に扱うのは別の話。

 世間ではほぼ絶賛の嵐であったが、その反応に私は違和感を感じた。

 ちなみに、オードリーの2人は各関係者に謝罪をし、後日ラジオで反省をしている。
 そこでは「心がしくじっていた」と語っていた。

 その内容は、あの生放送で問題を起こしてしまったが、実は普段から問題を起こすような心の習慣があって、そして実際あの瞬間に、それが表に出てきた。だからあの行動以前に、まず心がしくじっていたんだ、ということである。

 実はこの考え方、仏教にもつながると私は思う。
 自分の話すこと、動くこと、考えることなど、日頃の行いというのは、心の習慣によって大いに影響を受けている。
 だからこそ常々、反省を重ねていくことが大切なのだ。

 オードリーによるイス破壊事件は、自分の行いや心の習慣を改めて考えさせられる出来事だった。

2016.3.23

DSCN0306.JPG第151話  國生 徹雄  Kuniki Tetsuyu




自分で感じる

 
 私たちが開いている今年度の駒沢坐禅教室が終わり、早くも三カ月が経ちました。
 私は今年の三月いっぱいで修了(卒業)のため、もう参加することができなくなってしまいますが、四月からはまた新たなメンバーが入り、スタートしていきます。

 坐禅教室を振り返ってみると、初めの頃、自分は参加者にちゃんと坐禅の良さを伝えられるのだろうかという不安がありました。
しかし、その不安はだんだん無くなっていきました。
 それは、たくさんの参加者の方と出会い、みんなで一緒に坐禅をし、坐禅をした後、「心が落ち着きました」「集中して坐ることが出来ました」という言葉をいただき、気持ちを共有する中で、坐禅の良さは自分自身で感じることが大切なんだということに気づいたからです。

 「百聞は一見に如かず」という諺があるように、とにかくやってみることで分かることがある。それを教えてくれた駒沢坐禅教室に感謝です。

Shojin-Projectが本を出版しました!
美しいひとになれる禅の言葉 表紙.jpg
昨年開催された「東京禅僧茶房2013〜美心のすすめ〜」から生まれた一冊!!
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