2014.12.19
第120話 日比 博英 Hibi Hakuei
「体の調子と心の調子」
先日、地元である札幌に帰省する機会があったのですが、その際、東京との気温差のせいか、寒さのせいか体調を崩してしまいました。熱はすぐに下がったものの、その後も腹痛などの体調不良が数日続いてしまいました。
体の調子がすぐれず、力が入らないような状態になると、不安な気持ちが湧いてきて、心の調子まで悪くなってしまうものです。
普段、どちらかというと楽観的な性格の私も、その時はいつになく様々なことが不安に感じられ、落ち込んだ気持ちで体調不良の数日を過ごしました。
ところが、体の調子が回復してくると、昨日までの不安はどこへ行ってしまったのかと思うほど、落ち込んだ気持ちも不安な気持ちも、すっかり無くなって前向きで元気な心を取り戻しました。
改めて、体と心が繋がっていることを感じさせられました。
僧侶の生活規範は、体と心にとって良い習慣を身に付けて過ごすということに主眼が置かれています。
体にとっての良い習慣とは、さしずめ食べ過ぎず、体を冷やさず、早寝早起きといったことが基本でしょう。これらはごく一般的なことであり、子どもの頃から言われているようなことです。
しかしながら、大人になってもついつい乱してしまうことがしばしばです。
他にも、分かってはいるけど、ないがしろにしてしまっている自分なりの体調管理法が人それぞれにあるのではないでしょうか。
この年末年始、改めて体と心の養生について考えてみようと思っています。
2014.12.18
第119話 中野 太秀 Nakano Taisyuu
「マジックアワー」
この間の早朝、「マジックアワー」に出会う機会がありました。
マジックアワー(マジックタイム、ゴールデンタイムとも呼ばれる)とは、太陽は地平線の下に隠れ見えてはいないけど、しかし空は明るい時間帯のこと。空は淡いグラデーションのかかったような色合いに染まります。
一日のうち日の出直前の1時間と、日没直後の1時間のみ見られるこの現象は幻想的な光に満ち、世界が最も美しく見える時間といわれています。
マジックアワーを見たのは多摩川に架かる橋の上。ちょうど川の上だったため遠く地平線まで見え、淡い色合いに染まる景色が目に飛び込んできたのです。私は駅に向かう途中でしたが、思わず立ち止まりわずかの間その風景に見とれてしまいました。
私たちは美しい風景を見ると「心が洗われる」ようだと言い表します。
これは仏教を学んでいる時にも感じます。身と心をととのえてしっかりとした坐禅を組めたときや、仏教の教えを学んで心の疑問が解けたときなど。そういった心が晴れた時に感じる清々しさもまた「心が洗われる」ような気分を感じるのです。
もしかしたら美しい風景の中には、仏教の教えに似通ったなにかがあるのかもしれません。
2014.12.16
第118話 松葉 裕全 Matsuba Yuzen
「捨てること」
もうすぐ年の瀬を迎え、大掃除に忙しい時期になりました。
普段はできないところを徹底して掃除ができる大事な機会。新年を新たな気持ちで迎え、清々しくお正月を過ごすためには必要なことですね。
私が掃除の中で苦手なのが「物を捨てること」です。特に「本」はその典型で、すでに読み終わったのにまた読みたくなったらどうしようなどと色々悩んでしまい捨てられないことも頻繁にあります。しかし、そのままにしてしまっては本がどんどんたまるばかりで部屋の片づけができません。
どうしたらよいだろうかと考えていましたら、こんなことを思いつきました。まず、読み返した本はどのくらいあるだろうかと調べてみました。そうしたら、ほとんどないことに気が付いたのです。それどころかいつか読むだろう、いつか使うだろうととっておいたものは再度使われることはあまりありませんでした。
つまり、具体的にいつ、こんな目的で使うと分かっているものは残して、いつか読むだろうとか何かに使えるだろうとかいうものは捨ててしまっても問題ないということではないのではと思い至ったのです。
とっておくにしても「もったいない」だけでなく、きちんとどんな目的で使うのかを考えていなければ結局使わないものがたまってしまうだけなのです。
今年の大掃除は、とっておきたいという気持ちも物と一緒に手放してしまいたいと思います。
2014.11.27
第117話 畔柳 公潤 Kuroyanagi kojun
憧れの人はお坊さん!?
先日あるテレビ番組で、お坊さんを目指す6歳の少年をみました。彼はTVアニメの一休さんを観て以来、ずっとお坊さんに憧れているらしく、好きだった女の子にも「僕はお坊さんになるから、君とは結婚できない」と宣言しているそうなのです。
そんな彼がテレビの企画でお坊さんになってみるという内容の番組。
出家を覚悟して「母とは大人になるまで会わない」と、泣きながらも家を出ていきます。そんな彼に対し、番組スタッフが「なんでお坊さんになりたいの?」と質問しました。
「優しい人になりたいから。」
なんの迷いもなく出たその言葉が意外で私は少し驚きました。なぜなら「お坊さん=優しい人」というイメージが私にはなかったからです。「優しい人」のイメージに当てはまる人は世の中にいっぱいいる中、彼がお坊さんを選んだ理由はなんなのか。昔よく観ていた一休さんを思い返してみました。
すると、思い当たる節がひとつ。一休さんはどんな嫌がらせをされても、相手に直接暴言を浴びせたり、暴力で訴えることをしません。得意のとんちで相手に真意を悟らせるのです。ケンカもコミュニケーションにしてしまう一休さん。だからこそ、一休さんの周りはどこか楽しそうなのではないでしょうか。
彼が憧れたのは「お坊さん」というより、一休さんの「人柄」だったのかも知れません。憧れられることの少ない「お坊さん」ですが…「憧れる人がただお坊さんだっただけ。」そう言わせられるような人(お坊さん)に私はなりたい。
※ちなみに、この番組(探偵ナイトスクープ)はYoutubeでも視聴可能です。
「6歳児のお寺修行」で検索してみて下さい。
2014.11.27
第116話 中野 孝海 Nakano Kokai
自己主張する探し物
先日インターネット上で、とある便利グッズを見つけました。見た目はただの可愛らしいマスコットの付いたキーホルダーなのですが、物凄い機能がついているんです。手をパンパンと叩くと、音と光で自分の居場所を教えてくれるのです。
「TWEET SOUND LED KEYFINDER」という名前のこの商品、これさえあれば、鍵や携帯電話をどこかに置き忘れても慌てることなくすぐ見つけることが出来ます。肝心な時に限っていつもの場所にそれがない。そんな経験がある人も多いのではないかと思いますが、机の上が本や資料で乱れがちな私にとっては、まさに夢のような商品なのです。
でも、よくよく考えてみれば、常日頃から机の上の整理整頓を心掛けておけば、急いでいる時でもさっと取り出してすぐに次の仕事に移ることが出来ます。それができれば、あれもないこれもないと慌てることもなく、心にも時間にも余裕を持って行動できるはずです。次に使う人が困らないよう、「誰か」のことを考えて元あった場所に片付ける。自分が使い終わったらそれで終わりではなく、そういった見えない心配りも大切なのです。
道元禅師が記した「典座(てんぞ)教訓(きょうくん)」という書物に、次のような一文があります。
『高処に安(お)くべきは高処に安き、低処に安くべき
は低処に安け』
高い所にあった物は高い所に。低い所にあった物は低い所に。使い終わった道具一つ一つにいたるまで、感謝と真心の意を込めて、きちんと元の場所に片付けなさい。
耳が痛くなるお言葉です。
2014.11.18
第115話 田代 浩潤 Tasiro kojun
男心と秋の空
季節が変われば私達の物の感じ方、考え方も変わります。
例えば最近私が感じたことでは、夜路に灯る民家の赤い外灯は、夏場では特に感じる所はありませんでしたが、すっかり肌寒くなった近頃では暖かな光として目に映ります。
あと音楽。私はクラシックが好きでよく聴きますが、暑い夏には聴きたくなかったブラームスやシューベルトも今の季節では深く心に沁み込んで来ます。イメージしづらいという方は、夏はそうでなくとも冬は鍋が格別なことと同じと思って下さい。
秋は極端な夏からもう一方の極端である冬への過渡期であり、変化に揺れる季節です。その道すがらの揺れへの対応が難しく、装いを誤って身も心も調子を崩しやすい時節でもあるので気をつけたいところです。
ところが、腰の重い私にとっては変化の好機でもあります。
東京に来て現在の生活が始まってから早半年。生活のリズムを掴みつつあることに加え、「スポーツの秋」にかこつけて、好きだったランニング等も再開し、そろそろ生活を楽しんでみようと思っている近頃です。生活に新たな波紋を刻むことで、馴れつつある日常にも新たな観点を持って臨むことが出来るのではないかと期待しています。
私の男心も秋の空を恐れず、あわよくばそんな変化を楽しんでいきたいと思います。
2014.11.14
第114話 田中 仁秀 Tanaka Jinshu
甘柿
皆さんは、秋の味覚といったら何を思い出すでしょうか?
私は高校時代に見た、生まれ育ったお寺の境内になる甘柿をふと思い出しました。
高校3年生の秋の夕暮れ、紅葉が周囲を彩っている中にあるふっくらとした丸い甘柿に目がいきました。
近づいて見てみると、多くの実がしっかりと木につかまるようにぶら下がっています。
そして、足元に目を移すと、木になっている数と同じぐらいの落ちて潰れてしまった柿たちが。
その光景を目にしたとき、私が感じたのは切なさよりも木に残っている柿の力強さを感じたのでした。
風に吹かれ、雨に打たれても木から落ちずに耐え忍んでいる。
最初は渋くて食べられるようなものでなくても、頑張っていればいつかは甘くなり美味しくなる。
何だかその姿が、その当時大学受験合格という目標に向かって四苦八苦していた自分自身の境遇と重り、自分も頑張ろうと気持ちが引き締まった瞬間となったのでした。
2014.10.31
第113話 佐田 陸道 Sada Rikudo
神仏の聞き方
今から3ヶ月前の事。私生活で色々抱え込んでいた私はついに参ってしまいました。夕方頃から胸のあたりがゾワゾワし始め、夜にはもう不安感に襲われて居ても立ってもいられなくなりました。
これはちょっと寝るのは難しいなと思い、いっそ体を動かしてみようと思って、夜の散歩へと繰り出しました。取りあえず多摩川の河川敷で風に当たろうと思い、歩き続けること一時間。ようやく多摩川が見えました、そして…。
多摩川の脇の林に鳥居が見えました。大きな神社。
(最後に行ったのはいつだっけ・・)そういえば日ごろお寺を訪ねる機会は多いのですが、神社へは久しく行っていない事に気が付きました。
(鳥居、しめ縄、手水舎…)(行ってみようか)
誰もいない真夜中の神社、本殿の大戸は閉められていましたが、ともかく手を合わせて拝んでみました。そして心の中の事を少しずつ吐き出しました。抱えている悩みや人を謗る気持ちをポツリポツリ呟いてみると、不思議に何となく気分が和らいだ感じがしたので、私は多摩川の河川敷には下りずにそのまま家まで帰りました。
その晩はよく眠れました。
お寺や神社で神仏に拝んでいる人は多いものですが、きっと神様も仏様も喋らないから良いのだろうかと私は思います。おおよそ人の抱える悩みや問いの中には、たぶん答えを出すべきではない問いや、自分で答えを探すべき問いもあるものかもしれません。
とかく私たちは話しを聞くと、説教や助言したがるものですが、神社やお寺に鎮座する神様や仏様は黙って全部聞いてくれます。すべてを受け入れ、肯定も否定もしません。
これが人間にはなかなか難しい。だから昔から人は神仏に拝むのかもしれません。
2014.10.17
第112話 坂田 祐真 Sakata Yushin
細かいところまで
私が大本山總持寺で修行していた頃の話です。
修行生活で、作業することを作務(さむ)といいます。そしてその内の一つに掃除も含まれています。作務(掃除)の時間になると修行僧は急いで身支度をし、走って集合場所に集まります。そして着いた者から雑巾をバケツの水で絞り、一斉に雑巾がけを始めます。作務の時間には休む間もなく、誰もがてきぱきと雑巾がけを進めていきます。
しかしお寺中の廊下を雑巾がけしていると、次第に体が疲れてきてしまいます。すると中には、疲れるのが嫌で拭く場所を省いたり、見せかけだけ頑張っているようで実は手を抜いていたりと、そういった人が現れてきます。
その結果、廊下の隅や階段の角などに汚れが残ってしまい、その度に先輩の修行僧から大きい声で「しっかり隅や角まで拭くように!」と私たちに喝(かつ)が入りました。
現在、私はお寺での生活をしておりませんが、今でも先輩が言っていた喝を思い出します。しっかり隅や角まで拭く、という真意は、細かいところまでしっかり行う、という“心配り”なのだと私は受け止めています。
日常生活では怠けたい時、余裕のない時が必ずあります。すると知らず知らずのうちに不規則な生活になったり、約束や提出物の確認が雑になったり、相手の気持ちを考えることができなかったりと、自分の行動に粗が目立ってきます。
そんな時こそ自分に喝を入れて、何事もおろそかにすることなく、しっかり目の前の物事をこなしていく。それが私が作務の時間で学んだ“心配り”の姿勢です。
2014.10.10
第111話 村上 光龍 Murakami Koryu
父への憧れ
私は小さい頃から、母に「短気は損気だよ」としつけられてきました。しかし、そのしつけの結果は実らず、私は母に対してよく反抗していました。
人のせいにするつもりはありませんが、その影響は、おそらく父にあると思っています。
小さい頃から、父は「白といったら白、黒といったら黒」というような、典型的な“頑固オヤジ”でした。
そんな父に私は、
「絶対あんな父親にはならない!」
とは思わず、幼いながら
「あんな父にならなければ!」
と憧れの気持ちを懐き、口を「へ」の字に結んでは、母のしつけに反発して、父に従順に育ってきました。
ところが、父はいつまでも固い人かと思いきや、私が高校生の頃にはとても穏和になり、私たち子どもにも耳を傾けてくれるようになりました。
日常でもいつもニコニコして、面白いことがあるとゲラゲラ笑っています。
私はそんな父に、いつからかまた憧れるようになりました。日頃からニコニコするよう心がけていると、案外早くその癖は身に付き、面白いことがあると全力で笑うようになりました。
そんな習慣が身について数年。
先日、喫茶店で友人と話していると、見ず知らずの男性に
「キミ、笑った顔がとても素敵だね!顔全体で笑っているところとか、見ててとてもさわやかだよ!」
と言われ、その人は店を出ていきました。
見ず知らずの人に突然そのようなことを言われ、ポカンと呆気にとられました。しかし、私はとても嬉しく、今後も続けようと素直に思えたのです。
今では、実家へ帰省すると母は
「あんたよく笑うようになったね」
と言ってくれます。
腹が立っても、とりあえず笑顔で返す。そのことが、母への小さな孝行となっています。
2014.10.2
第110話 田澤 玄幸 Tazawa Genkou
秋の月
中秋の名月といわれるように、秋になると月がとても綺麗に見えてくる。
道元禅師も
「春は花 夏ほととぎす 秋は月
冬雪さえて すずしかりけり」
と和歌に詠まれているように、月を見て秋を感じられていたようである。
永平寺で修行していた頃、ちょうど今ぐらいの季節に夜の坐禅が終わり、坐禅堂から出て空を見上げると、いつも見ていたはずの満月がとても静かに、荘厳に見えたことを今でも覚えている。道元禅師もこの永平寺から同じ月を見上げていたのだろうか、と思うと不思議な気持ちになった。日本の月は風流な気持ちにさせるものである。
私は月といえば、良寛さんの和歌が好きである。ある晩、良寛さんの寝ているところに泥棒が入った。何も取るものが無くて困っているところを見て、心優しい良寛さんは寝たふりをしながら寝返りをうち、自分の掛けていた布団を盗(と)りやすくしてあげたという。
「どろぼうに 取り残されし 窓の月」
窓から見えるこの綺麗な月を、盗んで行かなかったとは…という、布団を盗られてもなお、窓から見える秋の月を愛でる良寛さん。
そんな心の余裕を、最近の私は忘れていたかな。と、秋の月は思わせてくれた。
2014.9.16
第109話 國生 徹雄 Kuniki Tetsuyu
こどものやさしさ
今月の上旬、静岡県内にある保育園に「仏の教え」をテーマにした演劇を発表するために訪問しました。全部で三ヶ所の保育園を訪問したのですが、二つ目の保育園を訪れた時にとても素敵なことがありました。
それは演劇の発表が終わって、園児たちと一緒に給食を食べている時のことです。私は男の子一人、女の子二人と一緒にテーブルを囲んで食べていました。そこへ保育園の先生がおかわりのバナナをもってやってきて、「バナナ食べたい人いる?」と園児に聞き、女の子二人が手を上げました。ところがバナナは残り一つしかありません。先生は二人にジャンケンをするように言って、二人は先生に言われた通りジャンケンをし、勝った方の女の子がバナナを受け取りました。
素敵なのはここからです。
その女の子は受け取ったバナナを半分にして負けた方の女の子に渡したのです。勝負で勝ったからといって全部一人占めするのではなく、負けた人にも分け与えるという行いが、こんなにも人を温かい気持ちにしてくれる。「仏の教え」を伝えに行った私のほうが、かえって子どもに教わって帰ってきたのでした。
2014.9.10
第108話 竹村 信彦 Takemura Shingen
苦しむ人々にできること
8月11日から始まった第96回全国高校野球選手権大会、いわゆる甲子園は大阪桐蔭高校の優勝で幕をとじました。
甲子園の魅力はやはり、各都道府県の代表として、チーム一丸となって試合する高校球児の姿です。
一生懸命に白球を追いかけ、一生懸命にベースにむかってヘッドスライディングする姿に、たくさんの勇気や感動をもらいます。
そんな姿を見ていた時、ふと、ある老師とのやりとりがよみがえってきました。
私が福井県にある永平寺で修行していた時のことです。
「一人でも苦しむ人の救いになりたい」と願い出家をした私は、老師にこんなことを尋ねたことがありました。
「悩みを抱えている人々や、苦しんでいる人々に対し、修行している私たちは何ができるのでしょうか?」
そんな私の問いに対して、老師は次のように答えて下さいました。
「とにかく、修行に一生懸命に打ち込みなさい!」
この老師の答えに、当時の私は正直納得することができませんでした。
それまでの私は、苦しむ人々にできることといえば、その人の側に寄り添ったり、お手伝いしたりと、近くにいなければできないことであると感じていたからです。
しかし、甲子園での高校球児の姿を通して、今自分にできることを一生懸命に取り組むその姿が、沢山の勇気や感動を与えてくれることもあるのだと感じるようになりました。
甲子園で戦う高校球児のように、泥だらけになりながらも、今目の前にある自分のできることに一生懸命に取り組んでいきたいと思います。
2014.8.28
第107話 中野 太秀 Nakano Taisyu
ブロック塀の模様
先日友人から面白い話を聞きました。
「家や道などの境界に使われるブロック塀に掘られている模様には、実は地域ごとに特色があるんだよ。」
ブロック塀の模様には、日本全国でよくみられるものから、日本海側では数が多く関東地方では数が少ないもの、ある特定の地方にしか見ることができない珍しいものなど、数多くの模様があるそうです。
※なかなか言葉だけではなかなか想像しづらいかと思いますので、こちらのブログをオススメします。
ブロック塀の模様の写真がたくさんあります。
http://kuzukago.exblog.jp/11989791
この話を聞いてから、道端のブロック塀に少し意識が向くようになりました。すると普段から見慣れた住宅街を歩いている時でも、そこには様々な模様があることに気がついたのです。曲線を三つ重ねたものや菱形、四角いものなど、意識して見てみれば、本当に多くの模様を見つけることができます。まるで宝探しのようで、あまり見ない珍しい模様を見つけると、少し得をした気分にもなりました。
普段はあまり意識を向けないところに目を向けると、時には面白い発見に繋がることを、ブロック塀の話は私に気づかせてくれたのです。
2014.8.19
第106話 松葉 裕全 Matsuba Yuzen
話を聞く
禅では何事も丁寧に行いなさいとよく言います。何事もという事ですから日常のあらゆる面が対象になります。
最近、私がより丁寧にしなければならないと感じたのが「人の話をよくきく」ということです。話をよく「きく」ということは人に対して向き合うことの誠実さを表しています。あなたをきちんと意識していますよ、おざなりにしていませんよという意思表示でもあります。
誰でもそうでしょうが、話を聞きながらふと別のことを考えたり、言葉には出しませんがちょっと違うんじゃないだろうかと思ってしまうことがあります。それは、きいているとは言わないのではないか思ったのです。
結局は、相手の方ではなく自分の方に意識が向いてしまっているのです。このようなときは話を聞いているようですが、相手の言いたいことには注意がいきません。
以前に見たテレビの討論番組はそのいい例でしょう。コメンテーターや政治家の方々が議論しているのですが、ほとんど相手の話を聞くことなく、遮って自分の考えを述べています。相手の話を聞いていない代表的なものではないでしょうか。
相手の話を聞くときは自分の思いや価値観を混ぜて「聞く」のではなく、自分の思いや価値観が混ざっていないか確認してから話を「聴く」ことが大切ではないでしょうか。実践するのは難しいですが、自分への戒めをこめて丁寧に話を聴くことを心がけていきます。
2014.7.22
第105話 日比 博英 Hibi Hakuei
「選択」
「自分が何者かは、能力で決まるのではない。
――どのような選択をするかによって決まる。」
これは、世界的に大ヒットしたファンタジー小説「ハリー・ポッター」の映画を観て、私の心にとまった言葉の一つです。
主人公であるハリー・ポッターは自分の中にある強大な闇の性質″に気がつき、自分に対する自信を失いかけて大きな不安を感じていました。そんなとき、最も信頼のおける魔法学校の校長先生が、先の言葉をハリー・ポッターに投げかけたのです。
人は自分が何者か、つまりどういう人間であるかについて決めつけや思い込みをしていることが多々あるのではないでしょうか。
何かしらの自分像を設定して、その自分像に合わせた生き方を選択しがちです。そのことに気が付いておかなければ、ありもしない自分像に振り回されてしまいます。
あらかじめ決められた自分など無いのです。
物語では、ハリー・ポッターは己に巣くう闇に呑み込まれることなく、また背を向けて逃げ出すこともなく、真っ向から闇と対峙して戦うことを選択し、ついに勝利します。
すべての選択肢は、いつも私たちの手の中にあります。
成りたい自分を思い描き、今日あなたは何を選択しますか?
2014.7.10
第104話 中野 孝海 Nakano Kokai
心を残そう
皆さんは「残心」という言葉を聞いたことはありませんか? 残心とは、常に相手のことを意識し、相手を思う心を自分の中に残しておくことを表した言葉で、日本の武道や芸能の世界でよく使われています。私が子供の頃やっていた剣道もその一つです。
激しい攻防が繰り広げられる剣道の試合では一瞬で勝敗が決まります。自分の方が優勢だからといって油断していると、大きな隙が生まれ、その一瞬が命取りとなるのです。常に相手の存在を意識し、たとえ見事な技が決まったとしても、そこで気を緩めずに相手と再び向かい合い、次の一手に備える。それが剣道における「残心」なのです。
正直私はこの残心という言葉は、武道や芸能など狭い世界でしか使われていない言葉だと思っていました。しかし、とある人のお話を聞いてその考えがガラリと変わったのです。
例えば部屋を出る時、中にいる人の迷惑にならないよう静かに扉を開けて外に出たとしましょう。部屋を出たからといってそこで油断して手を放してしまえば、勢いよく扉が閉まり、バタンと大きな音を立ててしまうかもしれません。突然そんな音が聞こえたら、部屋の中にいる人はもちろん、自分自身も驚いてしまいます。
ここで残心です。相手のことを思う心が最後まで残っていれば、なるべく音が立たないよう、最後までしっかり手を添えて静かに閉めることができる筈です。もちろん扉の開け閉めだけではありません。日常的に行う挨拶や食事などの作法、一つ一つの仕草にちょっとだけ「相手を思う心」を残しておくだけで、丁寧で落ち着きある立ち振る舞いが自然とできるようになるのです。
2014.7.4
第103話 畔蛛@公潤 Kuroyanagi Kojun
方便
お釈迦さまが迷える人々を救うため、その人その人に合った様々な手段で真実(救い)に導くことを方便といいます。
かくいう私も、幼い頃にこの方便によって導かれた経験があります。
これは、私がまだ保育園児であった頃の話です。
ある日の食卓に私が大嫌いな食べ物「もずく」が出されました。そこで母親は狙ったように一言、「食べるまで席を立っちゃだめよ。」幼い私にとって、その言葉は挑戦状のように聞こえたのかも知れません。負けず嫌いな私は何を思ったのか、もずくを口に含み、あえて飲み込まずに席を立ちました。おそらく、この状態なら食べたことになると考えたのでしょう。母の思い通りにはさせまいと、ひねくれていたのです。
そのままの状態で10分程でしょうか。口にもずくを入れたまま意地でも遊びまわっていた時のことです。母が一言、
「そのままにしてると、お口の中でうんこになっちゃうよ。」
この言葉が決め手となり、私はすぐさまもずくを飲み込んでいました。
当時の私はおそらく大変な思いをして飲み込んだのでしょうが、その甲斐あってか、今ではもずくが大好物です。
私の「飲み込みたくない」思いを、一瞬にして「飲み込まなければ!」に変えてしまった母の方便。もしかすると方便には、思いの方向を変える力があるのかも知れません。
2014.6.18
第102話 田中 仁秀 Tanaka Jinshu
譲り合いの精神
じめじめとした梅雨の季節になってきました。毎日のように雨が続いていると、何となく沈んだ気持ちになってきますし、外出の際に傘をさすのも億劫です。
傘をさして道を歩く時は、いつも以上に気をつけないと、周りの人とぶつかってしまいますし、そうなれば雨水がかかってお互いがぬれてしまうので注意が必要です。動きにくい環境が続けば、ストレスも溜まってしまいます。
そんな折、最近知り合いの方とお会いした時、こんなことをおっしゃっていました。
「以前は道ですれ違う時、場所を譲り合って、時にはお互いが同じ方向に避けようとして、逆にぶつかりそうになり、何となく恥ずかしさを感じて、知らない人と微笑みあっていたけど、最近は避けようともしない。相手が避ければ良いんだといった、自己中心的な考えが伝わってくる。」
私はこの話しを聞いた時、過去に何度も急いでいる人とぶつかりそうになったことや後ろから突き飛ばされて転んだことを思い出しました。それと共に、私自身が「譲り合いの精神」をもって、日々過ごしていたのかと考えさせられました。雨が降って歩きにくい、時間に余裕がない、疲れている、などで心のゆとりがなくなっていたのではないか。
しかし、そんな時こそ相手のことを考え、譲り合い、微笑み合えるようになれたらいいなと思った今節です。
2014.6.18
第101話 田代 浩潤 Tasiro Kojun
ぼんやりとした、しかし明瞭な
昨夜駅前のカフェでコーヒーを注文する。品物を受け取り、壁沿いのソファーへ。私の席の向こう側にはカウンターがあるのだが、その時は誰もいなかった。そのテーブルが面白い。
一続きのテーブルなのだが、天板には白いテープが貼られ、境界のないはずのテーブルを等間隔に分断しているのだ。
そういえば、むかし読んだ絵本の中に、同席の小学生の一方が机の上に線を引いて、「ここから出たら、ぶつからな」というシーンがあった。
ただ、その日のカウンターには誰もいない。しかし、「“私”のスペース」、「ここからはみ出すな」、そんな声の往来を見たようだった。
店を後にして駅へ。
乗り換えに便利だからという理由で先頭車両に乗り込んだ。
他の車両では味わえない真正面からの景色は、普段の街並みをいつもと違って見せてくれる。
ふと手前の窓、つまり客室と運転室とを分つ窓に目を遣ると、何やらシールが貼られていて、こうあった。
「夜間・トンネル内は光の反射を防ぐために、カーテンを締めさせて頂きます」
どうやらカーテンを締めるにも今や説明が要るらしい。
やがて電車は駅に着き、私はまた次の揺れに運ばれていく。
別段、何か意図があるわけでもなく、気紛れに出向いた土地でせいぜい景色を眺めるか、コーヒーを飲むなどして終える一日。
ぼんやりとした、しかし明瞭な意識で過ごすこの一日は、私を在るべき地点へと戻してくれる。
そ の日の終わり、駅から自宅への道すがら、花屋に部活帰りの高校生の財布を開く姿があった。その日は母の日だった。
どこの誰とも知れない。今後会ったとしても私は彼女と気付かないだろう。だが、ぽうっと、こころが温もるのを感じたのだった。
意図なき一日の賜物である。
来週はどこへ行こう。
2014.6.10
第100話 佐田 陸道 Sada Rikudo
私の五月病
昨夜も遅くまで布団の中で考え事をしてしまいました。
どうもゴールデンウィークが明けてからずっとこんな調子です。
そろそろ寝ようかと布団に入っても、何となく色々な事を考えてしまいます。
その日にあった出来事、将来の事、人間関係…。
考えはどんどん悪い方へ悪い方へ向かっていきます。
そして悩んでいるうちに、いつしか眠りについて朝を迎えます。
翌朝。
眠いのは勿論ですが、何だか体が重たい。そして昨晩あれほど深刻に思えた悩みはというと、嘘のように気にならなくなっています。
人間には交感神経と副交感神経という二種類の自律神経があります。
交感神経は興奮や緊張、ストレス等に関わる神経で、副交感神経はリラックスしている時に働いている神経です。日中の間は交感神経が活発に働き、逆に夜は副交感神経が優位に働いて頭と体をリラックスさせ、人を眠りにつかせる訳です。
しかし夜に何か思い悩んだりすると、交感神経が刺激され活動を始めます。
すると眠りの質が悪くなり、翌日に疲れを残してしまいます。
心の動きは神経の働きを通して、肉体の状態に繋がるのです。身心一如(しんじんいちにょ)(身と心は一つのものである)と禅は教えますが、確かにそうだなあと感心してしまいます。
睡眠は、身体と心を休める時間です。先の事を思い悩むのはやめて、今日からは体の本来のリズムに任せてみようと思います。結局は目の前の事を一つ一つやるしかないのですから。
思いがけず「身心一如(しんじんいちにょ)」の教えに頷(うなず)かされる事となった、そんな私の五月病でした。
2014.5.16
第99話 坂田 祐真 Sakata Yushin
お参り
先のゴールデンウィークは、みなさんどのように過ごされましたでしょうか?
私は高尾山へと行ってきました。高尾山は東京都八王子市にあることから、都心からも程近く、大勢の登山者が集まる人気スポットです。
当日は天気が穏やかで、登山はとても気持ちの良いものでした。青々とした草木に生命力を感じたり、太陽の光が小川に反射して綺麗だったり、蛙や鳥の鳴き声が聞こえてきたり、自然をたくさん感じたことは今でも印象に残っています。
山道を歩き始めてから少し進んだ頃なのですが、道の脇に岩をくりぬいたような小さな祠(ほこら)があり、その中には正面に仏様、手前には鈴(りん)・棒が置かれていました。
そこで私は鈴(りん)を棒で叩き、チーンと鳴らしてお参りし、「行ってきます」と心の中で一声かけました。
すると、それまで心にあった期待や不安などのざわざわした気持ちがスッと落ち着き、心を調(ととの)えて登山に臨むことができたのです。きっと、お参りをするために一息立ち止まったことが心に余裕を生み、仏様を拝む素直な気持ちが心を穏やかにさせてくれたのでしょう。
おかげさまで道中は危険なことも怪我もなく、楽しい登山の一日を過ごせました。
ちなみに、登山から戻ってきた時にも、もう一度祠(ほこら)に立ち寄ってお参りをしました。私は「行ってきました」と仏様にごあいさつをして、夕暮れ間近の高尾山を後にしたのでした。
2014.4.24
第98話 村上 光龍 Murakami Kouryu
桜と心の美しさ
4月上旬、関東地方では桜で満開の季節を迎えました。その日は風が強く吹いていたのですが、私は都内の駒沢公園を散歩していました。大勢のお花見客は所狭しとビニールシートを広げて、綺麗な薄ピンク色に染まった桜に魅了されていました。公園内には家族でお弁当を頬張る人、新歓コンパを楽しむ学生、散っていく桜を浴びながら自転車で全力疾走する子どもたち。とても微笑ましく、平和なひとときでした。私は公園内をゆっくり休みながらグルリと一周しました。
昼過ぎになって、風がさらに一層強く吹き始め、満開の桜が激しく散っていきます。
遊びに来ていたお花見客も帰宅する準備を始めていました。
そんな時、私はある光景を見てビックリ仰天。
それは、お花見客が強風によって散ってしまった桜の花びらをかき集め、きれいに処理していたのです。持ち寄った食べ物や飲み物で出たゴミを各自で持ち帰ることは常識的な範囲であるかもしれません。しかし、そこに来ていた多くのお花見客の中には、ビニールシートの上に落ちてきた花びらを集めて所持していたゴミ袋に入れる人もいれば、自分が使っていた周辺まで、どこから持ってきたのか箒で掃除する人もいました。
もちろん一部のお花見客による行為ではあったものの、私はとても気持ちよく、清々しい気持ちになりました。
お釈迦様の教えに「他の人に心地よい場所を提供するという施し」という教えで「房舎施(ぼうしゃせ)」というものがあります。私はその教えを思い出さずにはいられませんでした。
満開の桜の美しさに始まり、人の心の美しさに終わるとても良い一日となりました。
2014.4.18
第97話 田澤 玄幸 Tazawa Genkou
おふくろの味
最近、食育についての本を読んでいて、ふと気付いたことがあった。
たまにしか食べさせてもらえなかったインスタント食品=「袋の味」はよく覚えているのに、肝心の「おふくろの味」が、いまいちはっきりと思い出せなかったのである。
そんな矢先、東京にいる孫の顔を見に、母が北海道からやって来た。その時、久しぶりに母の手料理を食べることになった。それは素朴で、見た目も特に華やかではない料理ではあるが、懐かしく、あたたかさを感じるものであった。淡い味。まさにそれがぴったりの言葉だと思った。食べると何か、淡い記憶を思い出す、そんな味わいだった。
永平寺の台所の責任者である典座(てんぞ)老師は「精進料理の中にある淡味(たんみ)とは、ただ薄い味ではなく、その素材を生かす味、また食べたいなと思い出すような深い味わいのこと。人も一緒で、飾らない深い味わいのある人には、また会いたくなるもの」と言われていた。
実家にいては意識することがなかった「おふくろの味」。その淡味を、家を離れてようやくわかる歳になった。なんだか少しほっこりとした気持ちになった。
2014.4.11
第96話 國生 徹雄 Kuniki Tetsuyu 
変化に気づく
この時期私は家から駅へと向かう通勤の途中で、川沿いに咲いている桜の木を目にします。満開の桜の木はとても綺麗で、存在感があります。また、見る人を穏やかな気持ちにさせてくれます。
しかし、私がそこに桜の木があると認識するのは春のこの時期だけで、他の季節は、存在感がなく、その木が桜であることすら忘れています。それは、春は綺麗な花を咲かせるという大きな変化があるのに対して、春以外の季節は目に見える変化がないからです。
ところが、仏教に「諸行無常」という言葉があるように、常に変わらないものはありません。目に見える変化がないとしても、一瞬一瞬違う桜の木に変わっているのです。同様に日々の生活においても、身の回りでは必ず何か変化が起きています。
私たちは大きな変化はすぐに気づいても、小さな変化は気づきにくいのではないでしょうか。小さな変化に気づく感性を身につけれるよう、身の回りのことを意識し、学びや成長のきっかけとしていきたいと思う今日この頃です。
2014.4.4
第95話 竹村 信彦 Takemura Shingen
高校野球
3月21日に開幕した第86回選抜高校野球大会。高校野球が大好きな私は、球児たちの熱い戦いを楽しく応援していました。今回は龍谷大平安高校の優勝で幕を閉じましたが、毎年、全国の高校球児から沢山の感動と勇気をもらいます。
高校野球ファンの私が特に印象に残っている高校があります。それは、昨年の夏の甲子園、初出場ながら初優勝という快挙を成し遂げた群馬県代表の前橋育英高校です。
初出場初優勝という歴史的快挙よりも私が感動したのは、大阪市内の宿舎の周りのゴミ拾いをする選手の姿です。前橋育英高校野球部の荒井直樹監督のインタビューで分かったことですが、選手たちは群馬県でも、毎朝寮の周りのゴミ拾いを行っているようです。
一体、荒井監督は選手に対してどんな指導をしているんだろうと気になっていたのですが、先日、荒井監督の書いた『「当たり前」の積み重ねが、本物になる』(カンゼン出版)という本を見かけ、早速買って読んでみました。
その中で、荒井監督は「凡事徹底」という言葉を掲げ、「本物とは、中身の濃い平凡なことを積み重ねること」であり、「誰にでもできることを、誰にもできないぐらい徹底してやる」ことが大切であると書いていました。
荒井監督のいう「当たり前」とは、ゴミ拾いであったり、挨拶をすることであったり、食事を残さず食べることであったりと、本当に些細な事ばかりです。しかし、「始めたころは“意味がない”といろいろな人に言われました。それでも続けることが大事なんです。」と信念を貫き通したことが、初出場初優勝という快挙として形になったのです。
4月を迎え、私自身環境や立場が変化しました。自分自身にとっての「当たり前」をもう一度見つめ直し、周りに振り回されることなくその「当たり前」を積み重ねていきたいです。
禅僧小噺
2014.2.25
第94話 畔蛛@公潤 Kuroyanagi Kojun
グチの不思議 人間のふしぎ
この前、友人の愚痴を聞いていたときのこと。
その友人は女性の方。どうやらお付き合いしている方に不満があるとのことでした。不満が積もり積もっていたのでしょう。彼女が話を始めると彼の不満が出るわ出るわ…。
私は時折「彼の気持ちも分からないことはない」とは思いつつ、いやいや、今日は彼女の愚痴にとことん付き合おうと、とにかく同意の意志を示す作戦に打って出ました。
「なるほど」
「わかる!わかる!」
「それは彼がいけないね」
話が進むにつれて、いつのまにか私の方までヒートアップしてしまい、彼女の愚痴を聞くはずが、彼を知らない私までもが彼の愚痴をこぼしているようでした。
すると可笑しなことに、彼女の方はどんどんとクールダウンしていってしまいました。終いには「そんなこといわないで」「彼はそんなことするような人じゃない」と、まるで私が悪者になってしまったかのようでした。
なるほど。彼女は彼のことが嫌いで愚痴を言ったのではない。ただ少し寂しかっただけなんだと理解しました。彼に対する愚痴がこぼれにこぼれて、彼女の本心があらわれたような気がしました。
「愚痴」が「愚治」になった…
私は人間のふしぎを噛みしめつつ、彼のフォローにシフトチェンジした次第です。
2014.1.23
第93話 中野 太秀 Nakano Taisyu
Earth's rotation
仏教では、この世は無常であり永遠不滅なものはなく移り変わっていくものと教えています。
でも世の中には変わらないものもあるんじゃないだろうか?そう思ってしまいます。
例えば、閏秒で多少の誤差はあるけれど、一日は24時間。これは変わらない絶対的なものでは?
良い日でも悪い日でも一日の時間というものは変わることはなく、明日も明後日も変わらない毎日が訪れてくれる。ついそう思ってしまいます。
でも実は、この一日の時間というものも日々変化をしているのです。
現在の地球は毎日約24時間で自転をしていますが、実はこの地球の自転するスピードは少しずつですが落ちています。
4億年前の地球は約22時間で自転をしており、4億年後には一日長さは約20時間になるとも言われています。私たちが感じられないほどのわずかな違いですが、今日のこの一日は、昨日の一日よりも長い一日になっているのです。
たとえ私たちが変化を感じなくても、ものごとは少しずつ変わっていく。
「何事も変化のないものはない」
このことを心にとめて日々を過ごせていければ、何気ない日常も大切に過ごせていけるのではないでしょうか。
2014.1.7
第92話 松葉 裕全 Matsuba Yuuzen
大掃除
皆さんは年末をどのように過ごされたでしょうか。私にとっての最大のイベントは「大掃除」です。
実家のお寺では三日かけて大掃除をします。普段から掃除はしているのですが、いつもはやらないところや整理の行き届かない場所を念入りに行います。家族全体で役割分担し、窓ふき、雑巾がけ、ワックスがけ、外の掃き掃除など細かいところもチェックしながら進めていくのが恒例です。
掃除をしながら毎年のように思うのは、物を捨てるときにこんなものあったかなということです。いつの間にか増えていて、しかも特に必要のないものなのです。そういう物は結局使わずに捨ててしまい、もっとよく考えて買うべきだったかなと反省します。
物が増えてしまうと身の回りが整理しきれなくなってしまいます。そして、そうなると不思議なことに気持ちが落ち着かなくなるのです。気持ちよく過ごすためには、物を買うときに自分にとって必要か、買うべきなのか、衝動買いではないのかなどよく考えることが必要ではないでしょうか。
2013.12.13
第91話 日比 博英 Hibi Hakuei
メリハリ
永平寺で修行を始めたころ、先輩の和尚さんに「メリハリをもって修行をしてください」と言われることがありました。しかし、そうは言っても新参者の私にとって、永平寺での修行生活は、坐禅・読経(どきょう)・掃除など、ほとんど毎日同じことの繰り返しで、メリもハリも感じることはできませんでした。
メリハリの語源はもともと邦楽用語の「メリカリ」で、メリは低い音のこと、カリは高い音のことです。のちに「メリハリ」と言い替えられ、音声以外についても緩んだ部分と張った部分を指す言葉として一般化されました。
何事も、一本調子では味気ないものになり、上手くいかないものです。
修行生活は毎日、同じことを同じように勤めなければなりません。しかしその繰り返しの毎日を送るにあたって、先輩の和尚さんは「受け身ではなく主体的な意欲を持ち続けてください。」というメッセージを「メリハリ」という言葉に託していたのだと思います。
修行と仕事ではその性格は異なりますが、毎日の勤めとして見たときには似たような面を持っているように思います。はたから見れば、修行も仕事も地道な作業の繰り返しです。そのとき気持ちに「メリハリ」を持って取り組むことができれば、自分なりの楽しさや意義を見つけることができるのではないでしょうか。
新たに2014年を迎えます。「年がかわるといっても、少しの休日を挟むくらいでまたいつもの毎日に戻るんだし……」と思わずに、「メリハリ」ある日常を始める、良い機会にしてみてはいかがでしょうか?