2016.3.23
第150話 竹村 信彦 Takemura Shingen
「自分の家」
先日、NHKのドキュメンタリー番組「プロフェッショナル仕事の流儀」を見ていると一人の女性が紹介されていました。
新津春子(にいつはるこ)さん
世界空港賞「清潔な空港」世界1位を2013・2014年と
2年続けて受賞している羽田空港。
新津さんは、その美しさを支えている凄腕清掃員です。
20年以上清掃の仕事を続けている「清掃のプロ」である彼女は、自分の仕事の流儀をこんな風に表現していました。
「『心を込める』ということです。心とは、自分の優しい気持ちですね。清掃をするものや、それを使う人を思いやる気持ちです。心を込めないと本当の意味で、きれいにできないんですね。」
普通であったら見て見ぬふりをしてしまいそうな汚れた場所。
新津さんはそんな場所でも、使う人のために優しさをもって清掃に取り組むのです。
自分の清掃した場所に、自分の心が表れる。
そんな信念を持った新津さんの姿に感動していると、ふと私が永平寺で修行していた時の先輩の言葉を思い出しました。
「いい加減な掃除をするんじゃない!そこにお前のいい加減さがすべて出ているんだぞ!」
当時は、なぜこんなことで怒られるのかと不満に感じていた私。
しかし、今振り返ると、先輩は私に「心を込める」大切さを教えてくれていたのです。
「空港は自分の家と思っているんですよ。」
新津さんは最後にそう話します。
空港を自分の家だと思って、隅々まできれいにして人々をおもてなしする。
「心をこめる」とは、そうやってどんな些細な仕事であっても他人ごとにせず、愚直に取り組む姿を指すのかもしれません。
2016.2.20
第149話 佐粧 博史 Sasyo Hakushi
おもてなしは相手が決める
今月の21日〜27日までの期間、東京禅僧茶房2016と題して、南青山でパネル展示イベントを行います。
今回のテーマは、「喜(き)心(しん)・老心(ろうしん)・大心(だいしん)」。
「喜心・老心・大心」とは、典座(てんぞ)と言われる、料理係の修行僧にあてた教えです。
「喜心」とは喜びの心、「老心」とは思いやりの心、「大心」とは大らかな心。
今回は、一般社会のビジネスにも活かせるように伝えようと決まりました。
このイベントに際し、改めて「おもてなし力向上セミナー」という講習会を、元ANAのキャビンアテンダントをされていた加藤先生を講師にお招きする機会を頂きました。
一言で言えば素晴らしく有意義な講習会でした。先生の立ち居振る舞いが、とても丁寧で説得力抜群でした。
「皆さまにとっての日常はお客様にとっての非日常。」
「判断基準は相手。」
「小さいことほど丁寧に。」
「当たり前のことほど真剣に。」
「対応によって待つ側の時間感覚が違う。」
など、他にもいろいろと金言がありました。
全ては、相手の進む方向に寄り添い、もてなす相手を笑顔にするため。
そんな「奥ゆかしいおせっかい」
を、今回のイベントにも、お寺の公務にも取り入れていきたいと思います。
2016.2.4
第148話 江刺 亮専 Esashi Ryosen
しもやけ
先日、福井県にある曹洞宗の大本山、永平寺に行ってまいりました。
冬の北陸。寒さが苦手な私は万全の防寒対策をして福井に向かいました。電車を乗り継ぎ、いざ福井に降り立ってみると予想外に暖かく、街に雪が降っていた様子も見られません。
「なんだ、全然寒くないじゃーん!」
と、たかをくくっていた私ですが、永平寺に到着し、その余裕は一気にかき消されてしまったのです。
冬の永平寺は私も初めて訪れましたが、どの修行僧も厳しい寒さの中みんな裸足で、手の指を真っ赤に腫らしながら、一生懸命に雑巾がけを行っていました。
私は、永平寺で修行をしたわけではありませんが、そんな彼らの姿を見て、「私も修行中は毎年しもやけになっていたなぁ…。」と自分の修行時代のことをフッと思い出したのです。
「しもやけ」や「あかぎれ」は修行道場ではつきものです。どんなに指が痛くても、水が冷たくても、ただ一心に雑巾がけを務める。そんなことができるのは修行道場だからこそなのかもしれません。
私も一週間ほどの滞在ではありましたが、ずっと裸足で過ごしていたため、帰る頃にはすっかりしもやけになってしまいました
東京で生活を初めて3年。しもやけとは無縁な生活を送っていた私ですが、久しぶりに修行道場を訪れ、指を腫らしながら修行に励む修行僧たちの姿を見て、また、私自身がしもやけになったことで、どんな状況でも何かに一心に打ち込むことの大切さを思い出し、少し緩んでいた気持ちが引き締まる思いでした。
2016.1.21
第147話 伊藤 正法 Ito Shobo
変化を続ける日常
街の店先からは盛りに「ジングルベル」が流れ、いつしか「もういくつ寝るとお正月」に変わり、そしていつも流れる流行歌やお店のテーマソングが耳に入ってくる。
気がつけば、クリスマスや大みそか、松の内を過ぎていました
心の中では「あぁ、もう終ってしまったのだな」と、惜しみながら、いつの間にかその想いさえも消えていってしまう。
そんなことを考えていると、時間の流れる早さを痛感させられます。しかも、こう考えている間にも、時間は待ってくれず刻々と過ぎ去っていきます。
この世は無常(少しの間も同じ状態にとどまっていないこと。) であり移り変わっていくとお釈迦さまは説かれています。常ということがなく日々変化を続け、例え同じ日時であっても、その刻まれる時間は全く別物なのです。ということは、私たちが気づいていないだけで「何事も変化している」ということなのです。
私自身もお正月を過ごして、あれもこれもと目標を立てていました。ですが、実際には計画通りに進めることが出来ませんでした。そうした折に、「その瞬間が貴重なんだなぁ」と感じました。そう思えたからこそ、この何気ない日常を大切にしていきたいと感じる今日この頃でした。
2016.1.21
第146話 田中 仁秀 Tanaka Jinshu
『地上から宇宙へ』
先日、ぼーっとテレビを見ていましたら、国際宇宙ステーション(ISS)のニュースが流れておりました。
知っている方もいらっしゃると思いますが、ISSは地上約400km上空に建設された、人類史上最大の宇宙施設です。
宇宙関係に少しばかり興味のある私は、何かな?と思って見ておりますと、日本初の有人実験施設「きぼう」日本実験棟の様子が映し出されておりました。
なんでも、現在「きぼう」では新薬の開発に取り組んでいるのだとか。
宇宙で新薬の開発??
専門家でない私は、その光景が理解出来ずにニュースは次へと流れていってしまいました。
そういえば・・・
最近小耳にはさんだのですが、「宇宙葬」なるものが登場したそうな。
火葬された遺骨をカプセルに収め、ロケットで打ち上げて宇宙空間に放つ。
その名もスペースメモリアル(宇宙葬)!!
水葬、火葬、樹木葬、土葬ときて今度は宇宙葬。
なんとも壮大な話になってきました。
聞くところによると、宇宙葬は私の地元長野県の葬儀屋さんも受け付けているそうです。
誰が申し込むのだろう?と思いましたが、それだけ需用が出てきているのでしょう。
遺骨はお墓に入れることが当たり前だと思っていた私としては、この話はショックでした。
お墓参りが出来ないのも少し寂しい気がします。
価値観の多様化が進んでいる現代。
人類はどこへ進んでいくのでしょうか。
2015.12.17
第145話 田代 浩潤 Tashiro Kojun
休日 〜空と風呂〜
休日、近所にあるスーパー銭湯に行ってきました。と書くと、風呂好きかと思われるかもしれませんが、実は私にとって入浴は少し億劫なことです。風呂に入るとさっぱりします。けれども、体が少し重くなって疲れるような感覚、ありませんか?(私にはある)。まして、私が普段入っているのは肩身の狭いユニットバスで、平日であれば翌日の準備や散らかった部屋の片付け、歯磨き、そして…、という風に、入浴を数ある処理事項の一つとしてこなしている気がします。
しかし、後に気にすることがない時に、ゆっくり浸かる風呂ほど心地好いものもありません。特にまだ明るい時間、足を伸ばして広い露天風呂に浸かる入浴は、「この後」をせせこましく気にして義務的に処理する入浴とは質を異とします。「しなくてはならない」ものではなく、むしろ「したい」入浴なのです。しかもこの時節、冷たく乾いた外気をよそに、首から下は湯に浸かってぬくぬくしているその二局状態は、私にとってまさに至福の時。(ちなみに、寒い部屋で羽毛布団にくるまっている時も同じ)
休日の夕刻、露天風呂に浸かる私の上を茜雲が流れていました。上空はジェット気流の流れるマイナス何十度の世界だそう。地表で湯に浸かりながら、行く雲を眺めていると、チンケな頭脳にリストアップされた処理事項までも、どこかへ流れて行ってしまいます。いい入浴は頭をも裸にし、身と頭、両方の垢を洗い流してくれるのです。
至福の後、湯屋を出て再び空を眺めましたが、さっきより平日に近付いて見えました。
2015.12.2
第144話 佐田 陸道 Sada Rikudo
「脚下照顧」考
「脚下照顧」
よくお寺の玄関口にこの言葉が書かれた立て札が置かれています。
「脚下を照顧せよ」、つまり足元を見ろということで、「あなた、履物を揃えましたか?」といった事が、まず注意されている訳です。
この言葉には、日常の生活の中の一つ一つの行いに気を配ることで、ひいてはそれが心を整えていくことに繋がっていくのだという禅の教えが背景にあります。
先日、用事で知り合いのお寺を訪れた時のことです。
約束の時刻より少し前に到着したのですか、玄関にはすでに靴がいくつか並んでおります。
私も空いている隙間に靴を丁寧に揃えて置きました。
「脚下OK!」
その時ふと両隣の靴と見比べ、気が付きました。
「俺の靴、汚れてるなあ…」
ぬかるみで跳ねた泥や、どこかで擦った傷…。
そういえば忙しさにかまけて、しばらく靴を磨いておりませんでした。
どこかで聞いた話ですが、会社の営業部に配属された新人ビジネスマンは、
まず身だしなみの中でも「靴」について気を配るよう言われるそうです。
なるほど。靴を揃えるのは急場でもできますが、その場で靴を磨くことできません。
「結局こういう所に日々の姿勢が出るんだよなあ…。」
玄関口に置いてある「脚下照顧」の立て札を見ながら自分に戒めました。
「靴を揃えるだけじゃなくて、たまには靴も磨くべし。」
2015.11.18
第143話 坂田 祐真 Sakata Yushin
美味しいお米
先日、長野県に住んでいる祖父が、地元のお米が美味しいというので私の元へお米を送ってくれました。
その晩、私は早速お米を炊いて頂くことにしました。
炊き上がって炊飯器を開けると、そこにはアツアツの湯気とともに、ふっくらと白く輝くお米たちが。
私はお椀に盛り、冷めないうちにお米を口に運びます。
「美味しい!」
これが素直な感想でした。
一口運び、二口運び、私はご飯を食べ進めます。
そのうち、ふとした気持ちが浮かびました。
(こんなに美味しいお米。お米という食べ物を一番最初に発見した人は偉大だよなぁ。いやでも、その当時の味は今と違うのかも。それに味がどうかというよりも、いかに食料を確保するかで必死だったのかもしれない……。)
さらに思索は続きます。
(味についてはやっぱり品種改良とかのおかげだろうなぁ。でも試行錯誤するのも大変なことだっただろうな。……。)
(今食べている美味しいお米については、どこかで生まれた種が元になって、それをどこかの農家さんが労力と時間をかけて作ってくれたもので、それをおじいちゃんが送ってくれた、というわけだ。)
そこまで考えて、私は改めてお椀のご飯を見ます。
「このお米たち、一粒一粒は…、とにかく、いろんな集大成ってことだ!」
「その集大成が今自分の元に来てくれている。しかも美味しく頂いている。とっても有難いことだ!」
……自分なりの結論が出たことで、私の思索は終わりを迎えました。
たった一粒のお米。小さな粒でありながら、大きな歴史と縁を秘めている壮大な粒。
それに想いを巡らせた私。
お米が届いたある日のお話でした。
2015.11.6
第142話 村上 光龍 Murakami Koryu
極めつきな時間
最近、時間の経過が瞬く間に進んでいることを肌で感じ、限りある東京での時間を謳歌せねばという思いに拍車がかかり始めている。
現在は、予(かね)てからの趣味であった「散歩」に一層熱が入り、楽しんでいるところだ。
休日、あるいは空いた午後の時間、それまでに目を付けていたスポットを訪れて、ゆっくりとした時間を楽しむようになった。
ちなみに、私の最近のホットな場所は、日本橋だ。
喫茶店で、好物のチャイをゆっくりとすすりながら本を読んだり、調べ事をしたりすることが、今の私にとっては極めつきな時間となっている。
ある程度の時間が過ぎたら、外へ出て街を徘徊する。そして、またお店に入りお茶を飲む。
お茶を飲んでいる時間を静かな坐禅の時間にたとえるならば、街を出歩いている時間は経行(きんひん)の時間のようだ。
私にとって、言うまでもなく坐禅は安らぐ時間である。しかし、違ったかたちで「坐禅に似たような憩いの時間」というのは、意外とひょんなことから見つかるのかもしれない。
今は、そんな極めつきな時間を楽しみたいものだ。
※経行(きんひん)
→足のしびれをとるために行う歩く坐禅。
2015.10.21
第141話 田澤 玄幸 Tazawa Genko
おさかな先生
私は昔から、魚が好きである。といっても、食べるのではなく、観賞魚として、である。
されたことのある方はわかると思うが、水生生物の飼育(アクアリウム)は奥が深い。
「金魚鉢で金魚」が昔からの定番であるが、現代はデスクにおける小さなものから、人よりも大きい水槽で熱帯魚を飼う人もいる。種類も淡水魚や海水魚、熱帯のものや渓流のものと多種多彩である。最近では、水草もアクアリウムの大切な主役であり、二酸化炭素添加装置やPh(水質)の調節など…。その奥深さは手を出せばキリがないのである。
私はその水槽を、静かにじーっと見ている時間がとても好きだ。こちらから見ている限り、水の流れる音だけが際立つその小さな世界で、彼らは悠々と、平然と生きているのである。どこの世界であろうと、そこがまるで自分が生きるべき場所としてさとっているかのように、無口でただ生きることに集中している、そんな風に見える。
人間はわがままで、自分の思い通りにいかないと、すぐに不満を漏らし、不機嫌になり、周りにまでも影響を与えてしまうのに。そう考えると、魚の方が大人なのかもしれない。
本当は不満を持っているのかもしれないが、魚はそこまではさとられないし、見ていても分らない。
今日は私も、周りからは悟られない様な、そんな大人でありたい。
2015.10.16
第140話 竹村 信彦 Takemura Shingen
行動
先日、友人からこんな話を聞きました。
高速道路のサービスエリアで休憩していた時のこと。コーヒーを飲みながらベンチに腰掛けていると、
「ガッシャーン!!」
と大きな音が聞こえてきたそうです。
驚いて目を向けると、そこには倒れてしまったバイクを慌てて起こそうとする男性の姿。おそらく、バイクを停めようとして誤って倒してしまったのでしょう。その男性は動揺していたのか、なかなかバイクを起こすことができません。
周りにいる人達はといえば、その男性をただただじっと見守っているだけです。
「まったく、誰か手伝ってあげればいいのに」
友人はそう思いながらしばらく眺めていると、近くにいた夫婦がようやく男性を助け、一緒にバイクを起こしはじめます。
「優しい人たちがいてよかった」
一安心して夫婦の行動を見つめていた時、ふと自分の行動をふり返ってみたそうです。
慌てている男性を目の前にして、
行動を起こして助けにいった夫婦と、
「誰か」に任せたまま眺めているだけだった自分。
思い返してみると、手助けすべきと思いながらも、結局人任せにして行動に移すことができなかった自分自身がそこにいた。そのことを、友人はとても後悔しているのだと話してくれました。
「その時 自分ならばどうする」
これは、詩人である相田みつをさんの言葉です。
理想を掲げ他人を批判するだけでなく、まずは自分に何ができるかを考え、実際に行動に起こす。具体的な行動を大切にする相田さんの信念が伝わってくる言葉です。
困っている人を目の前にした時、行動できる自分でありたいと思います。
2015.9.30
第139話 國生 徹雄 Kuniki Tetsuyu
心のゆとり
モノが捨てられない…これは私が直したいと思っている性格の一つです。
自宅の部屋や職場の机にモノが溢れてきたとき「ちょっと片付けようかな」という思いから整理整頓を始めるのですが、「これを捨てるのは勿体ない」とか「これは後で必要になるかもしれない」という思いが邪魔をして、結果的にあまりモノを捨てることが出来ません。しかし、捨てるのをためらったモノで、後で必要になるモノはほとんどないのです。
最近では捨てられないものが多くなってきたせいか、部屋のスペースにゆとりが無くなってしまいました。
自宅の部屋は、落ち着ける一番の場所であってほしいのですが、あまりくつろげなくて、落ち着くことも出来ません。
インターネットで「モノを捨てられるようになるにはどうすればよいか」と調べていたら、「断捨離(だんしゃり)」という言葉が出てきました。2010年の流行語大賞にノミネートされた言葉なのですが、私はこの時初めて知りました。
断捨離はモノへの執着を捨て、身の回りを綺麗にするだけでなく、それによって心もストレスから解放されてスッキリすることが目的となっています。
思い切ってモノを手放すことで空間にゆとりが出て、それが気持ちのゆとりにつながる。
身の回りの整理が心のゆとりにつながるのなら思い切って手放してみようかなと思う今日この頃です。
2015.7.30
第138話 佐粧 博史 Sasyo Hakushi
伝わるとちょっと嬉しい
職場からの帰宅途中の電車、目の前の席が空きました。誰も座る気配が無かったので着席しました。
「ほっ」と一息付いていると、次の駅で六十代後半位のおばさんが乗ってきたので、何となく席を立ち、手で「どうぞ」の仕草。
おばさんは一瞬の驚いた表情と、その後の笑顔で、席に座ろうとしました。
ところが、途中で何か発見し動作を中断しました。
ふと目をやると、八十前後ぐらいのおばあさんが杖を片手に乗ってきたのです。
その方に手で「どうぞ」の仕草をしました。
おばあさんがおばさんに「ありがとう」と一言。おばさんは私を見つめながらおばあちゃんの耳元で、何か話していました。その直後に、おばあさんが暖かい笑みで私に「ありがとう」と会釈してくれたのです。
私は気恥ずかしくて、無表情で会釈を返すだけの素っ気ない態度で、携帯電話を触り始めました。
ふと、私からおばさんに、おばさんからおばあさんへとその意図を組んだ行動が伝わった事にちょっと嬉しくなりました。
2015.7.22
第137話 江刺 亮専 Esashi Ryosen
手紙
ある休日、部屋の掃除をしていると、押し入れの奥から、今までにいただいた手紙が入った箱が出てきました。
その箱を発見して一通、また一通と読み返していると、まったく掃除は進みません。
自分がその手紙をもらった時の情景や、その当時どんなことを考えていたのかなど、どうしてもいろいろなことがフッと思い出されてしまうのです。
ささやかな一筆箋やキレイな便箋にしたためられた手紙。それぞれの手紙はどれも季節感が溢れ、どこか温かみがあり、届いてから数年経った今でも、読んでいて思わず笑みがこぼれる。そんな内容でした。
メールなどで送られてくるメッセージは、リアルタイムな情報交換ができてとても便利です。そんな中で、手紙というアナログの魅力を再発見した休日。
私も久しぶりにメールではなく手紙を書いてみようかと、そんなことを思った一日になりました。
2015.7.1
第136話 伊藤 正法 Ito Shobo
カエルに学ぶ
六月の空、見上げると雨粒がぽつぽつ落ちてくる。
雨を喜び一斉に鳴き出すカエルの声、雨を疎む人の声。
雨は空から水の滴を落とし、その水が循環し世界の根底を支えています。古代ギリシャの哲学者も「万物の根源は水」と言いました。そう考えると、万物の根源である水を降らせる雨は非常に有り難い現象だと思います。
しかし、その恵みを享受している私はどうでしょうか?『明日雨になれば良いな。』、または『明日大事な用が有るから、雨は降って欲しくない。』という様に、自分の都合を言うばかり…。
そんなことを考えていると、またカエルの声が耳に入ってくる。
カエルは雨になると道路などによく顔を出し、元気いっぱいにピョンピョン跳ね回っています。天気のいい時には見せない生き生きとしたその姿は、軽快なステップを刻んでいる様です。
私も同じ様に、雨が降ったら雨を喜ぶ。そんな風に生きてみるのも良いのかなと思いました。
2015.6.5
第135話 田中 仁秀 Tanaka Jinshu
再会
先日、嬉しいことがありました。
とあるイベントに行った際、ふと視線の先にどこかで見たことがある人の姿が。
(あれ?○○さんじゃないか?)
そう思った私は、声をかけてみました。
「すみません、○○さんですよね?」
すると、その方は最初驚いた表情でしたが、少し考えて思い出したようで、
「あっ、お久しぶりです。」
と声を返して頂けました。
その方とは、実に4年ぶりの再会で、偶然の出来事に私は少しばかり緊張していました。
すると、相手からとても印象に残ることばを言われたのです。
「もう何年も会っていなかった私を覚えていてくれて、名前を呼んでくれて、すごく嬉しいです。」
このことばを言われた時、私もすごく幸せな気持ちになり、「あぁ、声をかけてよかった。」と思いました。
「覚えてくれていてありがとう。」
その人の存在を覚えているだけで幸せな気持ちになれる。
「これからも一人でも多くの人たちと関わって、繋がっていきたい。」
そう思った良い再会となりました。
2015.5.29
第134話 田代 浩潤 Tashiro Kojun
もう30分も早ければ
田町駅から仕事場への道はオフィス街。ガラス張りのビルは互いを映しながら軒を連ね、朝夕、数知れぬビジネスマンとOLが道を行き交います。朝の通勤時間となれば、早歩き、小走りする人が多く見られます。満員電車のお次はランニング。外国の人が見たらよっぽど仕事好きな人たちと思うでしょうが、新しい朝、希望の朝の喜びに、大空仰いでいる人たちは見受けられません。
出勤時間の遅い日、信号を待つ保育園の子どもたちに出くわしました。先生の押すリアカーの手押しバージョン(もはやリアではないですが)に何人も乗せられ、先生に何か訴えたり、同じく信号待ちするオトナたちをじっと見つめたりしています。いつものこの街を思うとどこか拍子抜けしてしまうこの光景は、もう30分も早ければ見られない光景です。もう30分も早ければ信号に足留めを食っていたはずのビジネスマンも、今や子どもたちとのやりとりを信号に許されています。しかし、薄情な信号は間もなくその顔色を変え、堰(せき)切ったかの如く時と人は流れ出し、束の間の柔和は終焉します。
もう30分も早ければ、誰が赤を惜しんだでしょう。
2015.5.15
第133話 佐田 陸道 Sada Rikudo
やさしい中央線
午後四時。まだ帰宅ラッシュには早い時間ですが、新宿へ向かう中央線は学生やサラリーマンでそれなりに混んでいます。私は扉の近くの座席に腰かけ、ウトウトしていました。
その時、ふいに車両の左手からこちらに歩いて来る子どもの姿が視界の端に入りました。
男の子。背格好をみるに幼稚園児くらいでしょうか。
彼はそのまま、私の席の前を通り過ぎ、こちらに背を向けて扉の前に立ち止まりました。
(泣いていた?)
私の前を過ぎる時、ちらりと見た男の子の顔には
涙が浮かんでいたような気がしました。
(何か悲しいことがあったのだろうか。)
私は男の子の小さな背を眺めながら、そんな事をぼんやり考えていました。
すると隣に座っていたご老人が突然立ち上がり男の子の方に歩き出しました。
「おい、どうかしたかい?」ご老人は少年に声を掛けました。
「なんでもないっ。」少年はぶっきらぼうに答えました。
「ほんとに大丈夫か?」
「だから何でもないって言ってんでしょ!!」
この親切なご老人と、予想外にぶっきらぼうな男の子との取り合わせが
なんだか可笑しくて、私は興味深く眺めていました。
「そうかい。」ご老人は踵(きびす)をかえし、また私の隣に腰かけました。
そういえば吊革には何人かの人々が掴まっておりましたが、誰も空いた老人の席に座ろうとしなかったことに気が付きました。
何というか、一つの不思議な劇を見た気持ちでした。
そして、私はまたウトウトしはじめました。
2015.5.7
第132話 坂田 祐真 Sakata Yushin
猫のあしあと
先日、出掛けようとして家の自転車置き場に行った時のことである。
自転車に近づいてみると、サドルの上が砂で汚れていた。
よくよく見ると、汚れ方は肉球の跡。そう、野良猫のあしあとだった。
なんだこれは・・・と思いつつも私は手で砂を払う。
そうしているうちに一つ気づいたことが。
あぁそうか、これは私にとっては自分の自転車、でも猫にとっては踏み台だったんだ、と。
自転車のサドル。
私には私の見方があり、猫には猫の見方がある。
そして、いろんな見方を理解することも大切だ。
そんなことをふと思い出した一時だった。
2015.4.15
第131話 村上 光龍 Murakami Koryu
「万事を休息すべし」
最近身体を休ませていない。というより、あまり身体を休ませる時間を作ることができない。
そのせいもあってか、風邪をこじらせてしまう始末。
私たちは、坐禅を説明するにあたって「坐禅は身体を休ませるのにうってつけだ」と勧めている。それにも関わらず、当人はこの有様だ。
このことは、私にとって大きな気づきになった。
一般社会で、サラリーマンや自営業など、何かを生業として一生懸命働いている人というのは、なかなか休む時間など作れないもの。
ましてや、坐禅をしている時間などあったら、その分睡眠時間として確保したい。
おっしゃる通りだ。
とある方は私にこのように教えてくださった。
「坐禅をしていて眠たくなったら、それは身体が疲れていると示している証拠。その時はどうぞゆっくり身体を休ませるために、坐禅を一旦中止して寝てください。」
私は坐禅そのものの働きというのは、忙しいときや心が落ち着かないとき、坐禅によって人体や心の活動をニュートラルに戻すことができると思っている。しかし、ときにはエンジンを切ることも大事なことなのである。
「疲れているときこそ坐禅!」もいいかもしれないが、人体のバッテリーがそもそも尽きそうな場合にこそ必要なものは、まずは睡眠なのかもしれない。
2015.4.15
第130話 田澤 玄幸 Tazawa Genko
「私と桜と、ときどき団子」
私は江戸っ子ではないが、「粋」という言葉の雰囲気が好きである。
いつもこの時期になると、前から決まっていたことの様に、自然とお花見に出かけている。地元の北海道では、あまり馴染みが無いから余計かもしれないが。
今年は特に色々な花見所に足を運んだ。どこから来るんだろうという数の人々。
茶屋で抹茶と和菓子をいただきながら夜桜を見る。なんて、粋なこともやってみた。
「夜桜にお抹茶、粋だなぁ。」
そう思っている矢先に、出店の方から声が聞こえた。
「お父さん、先に桜を見に行きましょうよ。」
「うるせえ!俺は花より団子だーっ!」
私なんかよりも、何倍も粋な会話だった。お父さんも桜のお陰で粋なセリフである。
桜の花は綺麗なだけではなく、今その場で在るべきままに生きるから、「粋」を感じさせてくれる。散る姿までもが美しいと感動を与えられる。だからこそ人々をこんなにも惹きつけるのだろう。咲くときに咲き、散るときに散るのである。
散る桜 残る桜も 散る桜
禅、粋、桜。何だか似たようなもの。
今を生きるが「禅僧」。粋な生き方だな。と、改めて思い直すひと時であった。
2015.4.3
第129話 國生 徹雄 Kuniki Tetsuyu
「人事を尽くして天命を待つ」
最近私にはちょっとした悩みがあります。それは自分に対する評価が低いことです。また何かをする時にも堂々と出来ない自分がいます。自分はこれでいいのだろうかとあれこれ悩んで、失敗や悪い結果ばかりを考えてしまうのです。
それから、自分よりも能力が高い人を見るとその人を羨ましく思い、何故自分はあの人のように出来ないのだろうと劣等感を感じることもあります。日本人はよく自己肯定感が低いということを耳にすることがありますが、自分はまさにその典型であると感じています。
自分はもっと堂々と生きたい、自信をもちたい。そんなふうに思うのです。しかし、何かモヤモヤしたものがいつも心の中に残っています。
ある日のこと、テレビのワイドショーを見ていたら、こんなことわざが耳に入ってきました。
「人事を尽くして天命を待つ」
この言葉が気になって、辞書で調べてみると、
「人としてできるかぎりのことを実行し、その結果は天の意思にまかせる。」
このような意味でした。
私はこの言葉に心が打たれました。自分の事を過少評価し、先のことを悪く考えてしまう傾向があるけれど、結果がどうなるかはやってみなければ分らない。だからこそ、今自分ができることを精一杯やるしかないのだということに気がついたのです。
2015.3.13
第128話 竹村 信彦 Takemura Shingen
主人公
先日、私たちShojin-Projectが下北沢で開催したイベント「東京禅僧茶房」で、参加者のAさんがこんなことを言っていました。
「私は、世間では自分の評価が低すぎる人が多いように感じているんです。
確かに謙虚さや反省は大事なことかもしれないけど、せっかく、自分の人生の主人公に生まれてきたんだから、もっと自分のことを好きになってもいいんじゃないでしょうか?
私は、どんなに反省ばかりの日でも、自分自身を好きでいられるように心がけているんですよ。」
とっても素敵な言葉ですね。
「好きでいられるように心がける」
そんな、Aさんの「心がけ」の一つが、「自分のいいところ探し」なのだそうです。
反省の心は大事にしながらも、
自分の短所ではなく、長所をたくさん見つけるよう心がける。
Aさんは、そうやって人生の主人公である自分を好きであり続けようとしているのです。
この「主人公」という言葉。
もともとは、禅の言葉で「自分本来の姿」という意味があります。
自分の欠点を否定してしまいがちな私たちですが、
イイ姿の時もあれば、
ダメな姿の時もある。
そのどちらも、自分の本来の姿なのではないでしょうか?
大切なことは、自分の欠点を否定することではなく、
それをちゃんと素直に受け入れてあげることなのかもしれません。
ちょっと肩の力を抜いて、
「ダメな自分」も「イイ自分」と一緒に好きでありたいと思います。
2015.2.19
第127話 田代 浩潤 Tashiro Kojun
こころ此処(ここ)に在らざる私へ
冬は空気が澄んでいて、空がより碧い。雲も少ない。
空を眺めて雲が見つからないと、理由も無く嬉しい気持ちになる。大抵、ビルの陰に小さいのを見つけて落胆するのだが。
まさに由無(よしな)し事である。だが、こころに遊びあってのそれなのだろう。寒空の下もさほど苦もなく歩いて行ける。
忙しい時、こころにその遊びが無い。というよりむしろ「忙」は「心が亡い」と言っているのだから遊びどころではない。そのこころはどこへ行ったのか。恐らく、此処ではない場所だろう。此処に在らずに。
空のその碧さへの喜びは人として原始的な感動だろう。美術、音楽といった藝術に感動を覚えることが素晴らしいことであることに否定の余地はない。だが、この身を置き、一瞬たりとも離れることの出来ない空や空気、草花といった、誰の作品でもなく此処にあるものに感動を覚えるこころをこそ失いたくない、いつでも持っていたい、と私は思う。その時々に感動を覚えるこころを。
心亡くしていた私への自戒として。
2015.2.17
第126話 佐田 陸道 Sada Rikudo
銭湯と仏教
最近、近所の銭湯によく通っております。
そこは創業70年の老舗で、男湯と女湯の境に番台さんがいる、昔ながらの何とも趣のある銭湯です。それにしても銭湯という所は実に良いものです。大きな浴槽でのびのび足を伸ばして湯につかると、体の疲れが取れるだけでなく、気分までゆったりしてきます。
湯船に浸かっている他のお客さんの顔を眺めてみても、やっぱり皆さん同じく柔らかい表情をされています。
さて、ここで突然話は2000年以上前にさかのぼります。
当時インドには「竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)」という仏教の修行道場がありました。ここは仏教最初の修行道場として名高い場所ですが、そのすぐ近くには温泉が湧き出る、その名も「温泉精舎」がありました。
仏教の古いお経にも温泉精舎に滞在するお釈迦様の一団と、そこで沐浴(もくよく)する修行者の記述が出てきますが、もしかしたらお釈迦様のお弟子さんたちも、たまに訪れる温泉を密かに楽しみに思っていたのかもしれませんね。
お湯に浸かりくたびれた身体を癒す、束の間の休息。
そこでは修行の時の厳しい顔とは違って、皆ゆったりとした柔らかい表情を浮かべて…。ついついそんな事を想像してしまいます。
銭湯という不思議な空間。初めて会う人たちが素っ裸になり、和やかな顔で一つの湯船に収まっているその光景を眺めて、「ああ平和だなあ、仏教的だなあ」と、湯気の中でしみじみ思う私なのでした。
2015.2.13
第125話 坂田 祐真 Sakata Yushin
心の鏡
私が幼い頃、悪さをして叱られる時は、いつも仏壇の前でした。
私の親は叱る際に必ず、仏様の顔をちゃんと見てみなさいと言い、私は恐る恐る仏様の顔を見たものです。その時、仏様はどんな顔をしていたかというと、とても恐い表情で、私はすぐに目をそむけてしまうほどでした。
ところが、何か良いことをして嬉しい気分の時には、仏壇の仏様の顔は微笑んでいるように見えたのです。
当時は仏様の顔が変わることに何の疑問もなく、当たり前のように思っていました。
しかし今考えると、仏様の顔が、どうしてそう表情豊かに変わっていたのでしょうか。
それはきっと、自分は悪いことをしたから、心は後ろめたい、後ろめたいから自分は誰かに怒られるだろうという気持ちがある。逆に、良いことをしたから、嬉しくなる、良いことをしたから誰かに共感してもらいたい、というような自分の内に秘めている素直な気持ちを、仏様がそのまま受け止めてくれたのでしょう。だからその時その時の自分の気持ち次第で、仏様の表情が変わって見えたのだと思います。
仏様に向き合う時、実は自分の心に向き合っていたのです。
仏様はまさに、自らを映す心の鏡といえるでしょう。
2015.2.3
第124話 村上 光龍 Murakami Koryu
自転車×禅
最近、自転車通勤を始めました。
高校生のころは、片道10キロの道のりを毎日自転車で通学していたので、通勤もナンノソノ、と思っていたものの、運動不足で体力の衰えを感じずにはいられません。
さて、自転車に乗り始めてから、私は一つの気づきと出会いました。
それは自転車に乗っているときと、坐禅とでは、どこか共通するところがあるということ。自転車のペダルを漕ぎ始めてしばらくは、さまざまな回想や反省、想像が膨らんできます。「今度の会議は積極的な意気込みで臨めたらいいな」とか、「あのときこんな言い方をすれば、相手を傷つけなくて済んだのに」など。
しかし漕ぎ始めてしばらく経つと、いつの間にかそういった回想や反省は消え去ってペダルを漕ぐことに集中しているのです。
このときの感覚は、坐禅をしているときと似ている気がします。
坐禅をしているときも、最初は回想や反省を思い浮かべてしまいます。
しかし呼吸に集中していると、いつの間にか呼吸のことだけに集中して、他の雑念は消えてしまっているのです。
目的地に到着すると、坐禅を終えたときと同じように、気分はすっきりしています。
無事に到着できたからか、はたまた考えていたことが消えたからなのか・・・
ただ黙って景色の変わらない中をジッとしている坐禅と、いろんな景色や情報が視界に入ってくる中、ひたすら足を動かしている自転車とでは、一見全く違うことを行なっているように見えます。
しかし、実は双方に「過去や未来のことを考えている自分」をどこかへ置いといて、「今目の前にあることに一心に集中する自分」と向き合うことに出会えたできごとでした。
2015.1.23
第123話 田澤 玄幸 Tazawa Genko
怒りと感謝
この年末から現在まで、頻繁に飛行機に乗る機会があった。しかも、東京と真冬の北海道の往復である。
悪天候が重なり、最近乗った飛行機はどの便も1時間以上遅れての到着だった。さすがに乗客も1時間以上遅れるとピリピリした雰囲気になってくる。
先日、北海道から東京へ帰る夜の便も、1時間以上の遅れとなり、結果的に家へ帰る手段がバスしかなくなった。
そのバスに乗っていた時、後ろの若い男女が言い争っていた。
「遅れてイライラするのはわかるけど、それをバス会社の人に、八つ当たりしても仕方がないでしょ?それじゃあ相手の人もいい気持ちはしない! あなたのそういう所が…。」
30分くらいすると落ち着いた。
女性も相当勇気を出して男性に指摘していたことが伺える。しかし、女性は気付いていなかった。ついでに日頃の相手に対しての不満をぶちまけていたこと。そして、イライラしているのは二人だけではない。全員仕方なくバスに乗っていて、夜も遅く、誰も二人の言い争いなんて聞きたくないということを。
こう考えた時、自分もイライラしていることに気付かされた。外にばかり向かっている意識を、一旦自分に戻してみると、イライラしている自分がいた。ここはゆっくり深呼吸をして、落ち着いて考えてみる。
なーんだ。
あんな吹雪の中での飛行で、命あってなによりじゃないか。無事飛行機が着陸しただけでも良かったんだ。
感謝を忘れず。自分を忘れず。穏やかに生きることを心がけて。
2015.1.20
第122話 國生 徹雄 Kuniki Tetsuyu
ご祈祷(きとう)
三が日のことですが、私は千葉県のあるお寺のご祈祷の法要のお手伝いに行って参りました。
このお寺のご祈祷では、「家内安全」や「交通安全」等の願目(がんもく)をお札(ふだ)に書き、それを仏前にあげてお経を唱えます。
普段は木魚を叩いてお経を唱えるのですが、ご祈祷の時は木魚ではなくて太鼓を叩きます。またお経を読む速さもいつもより速くなります。
私は3日間、毎日太鼓を叩き続けました。
元日はご祈祷が15回あり、午前のご祈祷が終わったときに、お寺の住職に次のように言われたのです。
「太鼓はしっかり叩きなさい。私たちは一日に何度も ご祈祷を行うけれども、ご祈祷をお願いする人にとっては一年に一度の大切な祈りの時間なんだよ。」
自分ではしっかりと太鼓を叩いていたつもりだったのですが、休む間もなく続けてご祈祷を行ううちに、だんだんと腕が疲れてきてしまい、最後の方は太鼓を叩く音が弱くなっていたようなのです。
それまで太鼓を叩くことばかりに集中していた私ですが、住職の注意を受けてからは、ご祈祷に来られている方の様子をうかがうようになりました。
すると、ずっと目をつむりながら手を合わせている方や、中には泣いている方もいらっしゃることに気づいたのです。
そういった方を見ていると、「この方はどんな思いでご祈祷を申し込んだのだろう」と、ご祈祷をお願いする人の気持ちを考えずにはいられませんでした。
当然、その真意は考えてわかるものではありません。それでも、魂を込めてやらなければならない、そう感じた私の手には否応なく力がこもりました。
2015.1.14
第121話 竹村 信彦 Takemura Shingen
世界平和
あけましておめでとうございます!
年末年始、皆さんはどのように過ごされましたか?
おそらく、初詣にいかれた方も多いのではないでしょうか。
私は今年、初詣で驚くような会話を耳にしました。
それは、小学生くらいの兄弟の会話です。
「お兄ちゃん、なにお願いしたの?」
「内緒。お前は?」
「ぼくは、地球の人みんな幸せになりますようにってお願いしたよ。」
「へんなのー。」
うーん...
この弟のセリフを聞いたとき、私は思わず唸ってしまいました。
小学生ながら、なんて壮大なお願いなんだろう。
新年早々、まさに世界平和を願う小学生と出会ってしまったのです。
感動した私は、誰かにこの出来事を伝えたいと思い、友人に話してみました。
すると、友人が一言。
「その子のお願いの中には、お前の幸せも含まれているんだよ。」
うーん、確かに...
「地球の人みんな」と聞いて、どこか他人事に感じていた私。
しかし、見ず知らずの小学生が、実は私の幸せをも願ってくれたのです。
その事実が、少しだけ私を幸せな気持ちにしてくれたのでした。
世界平和という壮大な言葉を聞くと、どうしても視線は遠くに向いてしまいがちです。
しかし、その言葉の中には、自分の足元も同時に含まれています。
遠くばかりを見つめるのではなく、まずは自分の身近な人の幸せを願い生きていきたいものです。
また、そうやってみんなが幸せになった時、実は自分自身も幸せを感じているのかもしれません。