2013.11.22
第90話 中野 孝海 Nakano Koukai
親知らず
私事で大変恐縮ですが、先日親知らずを抜いてきました。
日頃の不摂生が原因か、親知らずに虫歯ができて早一年。地道な治療を続けてはきましたが、残念ながらこの度抜くことに決まったのです。
お医者さんから「抜こうか」といわれた時は、一年もの間私を悩ませ続けてきたこの痛みから解放されるということへの嬉しさがある反面、大切な体の一部であるそれを抜いてしまうのかと思うと、どこか物寂しい、何とも言えない不思議な気持ちになりました。
治療当日、麻酔のおかげで痛みもなく、あっさりと私の体から離れていきました。初めて目の当たりにしたそれは思っていたよりも小さく、いびつな形をしており、表面には度重なる治療の跡と、黒い虫歯が見えました。
長い間私を苦しませてきた親知らず。
長い間一本の歯として私の生活を支えてくれた親知らず。
今まで邪険に扱ってきたそれも、私の体を形作る大切な一部だったのだと改めて思いました。
2013.11.6
第89話 村上 光龍 Murakami Kouryu
事件
夏のお盆の時期。
私はとあるお寺のお手伝いに伺うため、朝六時半ごろ、最寄り駅へ向かっていました。
ホームで電車を待っていると、まもなくして電車が来て私の前で止まりました。
電車に乗り込んだ瞬間、私は自分の目を疑いました。
頭から血を流した男性が倒れていたのです。
彼は泥酔していたようで、吐く息からは酒の匂いが漂ってきます。
電車内で意識を失い、倒れた拍子に頭をぶつけたのだと推測できました。
私は咄嗟(とっさ)に駆け寄り、声をかけ、持っていたハンカチで彼の頭を押さえます。
電車が発車してしまったため、次の駅で彼を電車から降ろすと、幸いにも意識が戻ったのでホッと一安心。
すぐさま駅員を呼び、自動販売機で水を購入して彼に飲ませました。
しばらくして彼の意識が十分戻ったので、あとは駅員に任せ、私はお寺に向かいました。
私がこの一連の出来事で最も恐怖に感じたことは、泥酔することでも、倒れて血を流すことでもありません。
彼が倒れていた車内には、他にもたくさんの人が乗っていたのです。
私が彼を見つけたときより以前から、ずっと周囲の人は彼を尻目に、誰一人として彼を助けようとすらしなかったのです。
あれから三ヶ月以上が経過しましたが、このことを思い出すだけで、私は未だにゾッとします。
2013.10.24
第88話 田澤 玄幸 Tazawa Genkou
変化
永平寺での修行生活を終え、東京に出てきてからもう半年経ってしまった。毎日同じようなことを丁寧繰り返す永平寺での生活から、毎日目まぐるしく流れる東京での生活に慣れることに、意外と時間はかからなかった。もう少し慣れるのに苦労するかと思っていたが、意外と私は順応性があるのかもしれない。
ただ、今の世間の情報の多さに順応していくことはなかなか大変である。「情報過多じゃないか?」と、アナログ人間な私は思ったりもする。いやでも色々な情報が入ってくるのだから。情報が沢山あるというのは、日々、色々な変化があるからだ。それらのことに流されないように、自分を見失わないように生きることを心がけるが、それもなかなか大変なことだ。そんな時はあえて流れてみることも一つの選択肢なのかもしれない、と思った。
私の好きな言葉の一つ。
「鳴かぬなら それもまた好し ほととぎす」
余裕を持って、たまには違う視線から見られるような、そんな人になれたら人生は少し変わってくるのかな と、ふと思った。
2013.10.10
第87話 竹村 信彦 Takemura Shingen
目標
私には、尊敬している人物が二人います。
それは、私の実家にいる「おじいさん」と「おばあさん」です。
私の家は、「おじいさん」と「おばあさん」、両親、弟二人の七人家族です。
「おじいさん」と「おばあさん」の二人は農業をしています。
野菜やリンゴ、柿、お米を作っています。
自然を相手にしている二人に休日はありません。
たとえ、嵐や台風がきたとしても、作物を守るため二人は畑に出かけていきます。
畑に照明はないので、日が出ている間しか二人は働けません。
そのため、二人の朝は早いです。
日の出とともに二人は出かけていくので、小さい頃から、一緒に朝食を食べたことがほとんどありません。
日が暮れて暗くなり、手元が見えなくなるまで二人の仕事は続きます。
こんな毎日を当たり前のように繰り返してきました。
「おじいさん」は16歳から働き始めて、今81歳。
「おばあさん」は18歳から働き始めて、今79歳。
長男・長女である二人は、親や兄弟を養うために、約60年間この仕事を繰り返してきました。
自分のためではなく、皆に美味しい作物を届けるため、雨の日も風の日も働いてきたのです。
そんな二人と対照的にいい加減だった私。
中学生のころ、朝寝坊ばかりしていた私。
小さい頃からずっと働いてきた二人には、そんな私に言いたいことが沢山あったでしょう。
しかし、二人は何も言いませんでした。
ただ一言だけ…
「やさしい人間になりなさい。」
そうして、また畑に出かけていきます。
この言葉を噛みしめ。
二人の背中が語る言葉に耳を傾けて。
「やさしい人間」になれるよう、
今しかない今を大切にして生きていきたいと思います。
2013.9.27
第86話 國生 徹雄 Kuniki Tetsuyu 
日々の努力
先日あるお寺の法要に参加して参りました。そこのお寺では毎日年回法要が行われており、その際に、※「塔婆」を書いてもらうように依頼されることがあります。
私は小学生の頃、祖父に書道を習っていました。祖父の指導はとても厳しかったことが今でも記憶に残っています。そのおかげで、書道コンクールでは金賞を取ったこともありました。ですから、それなりの字は書けると思っていたのですが、いざ塔婆を書いてみると納得のいく字が書けませんでしたし、「君の字は全然ダメだね」と、そこのお寺の和尚さんに言われてしまいました。
昔やっていたからといって、その後やらなくなってしまうと腕は確実に鈍ってしまう。「継続は力なり」という諺があるように、日々の積み重ねが大切であることを実感しました。
今の生活ではパソコンを使うことは多くても、筆で字を書くことはほとんどありません。そのことを自覚し、毎日少しでも筆をとり、字を書く練習を今、し続けています。
※死者の供養のため、墓石の後ろに立てる
細長い板。上方左右に五輪塔の形を表す
五つの刻みを入れ、表裏に経文・戒名・没
年月日などを記す。板塔婆。そとうば。
2013.9.4
第85話 本多 清寛 Honda Shokan 
子ども坐禅会
今年も東京のお寺で行われている子ども坐禅会のお手伝いに行きました。今年は20人くらいの子ども達が来て、一緒に坐禅をしたり、花火をしたり、プールに行って遊んだりと、かなり盛りだくさんな2泊3日の行程です。
子ども達は、小学2年生から中学1年生までおり、大きな子が小さな子の面倒を見てくれました。小さな子がワガママ放題していると、和尚さん達は大きな子を叱ります。
「どうして見ているのに止めないの?」
そうやって、大きな子が自発的に小さな子に注意してくれるように叱るのです。和尚さん達の方は、大きな子が小さな子を叱るときに、自分勝手に怒らないように気を付けて見ていました。
相手のことを思って叱るのは大人になっても大変です。私は毎年、子ども達から、相手を思う気持ちについて教えてもらっています。
とはいえ、“小生意気”な小学生の相手は大変に骨が折れます。
本当に毎年くたくたで、身体の衰えを感じる今日この頃なのです。
2013.7.10
第84話 大澤 香有 Osawa Koyu 
「取捨選択」
「取捨選択」これを意識するようになったのは大学生の時。
何かを選べば何かを捨てることになるのだということを知った。
何でも手に入ると思っていたその頃の私は、何かを捨てることもまた選択なのだということに衝撃を受けた。
今になって振り返ると、学生の頃の選択はささやかなものであったように思える。
だんだんと年齢を重ねるにつれ、大切なもの、守りたいものが増え、
「責任」なんてことも出てくるし、なんでも簡単に決めることはできなくなる。
しかし、それでも前に進むためには選ばなくてはいけない日はやってくるのだ。
私は、何か大きな選択をするときは必ず、
「本当に大切なものってなんだろう?」
と何度も自分に問いかける。
なぜなら、人に答えを求めても、誰も答えてくれないから。
自分に嘘はつけないから。
道元禅師の著書『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の中に、「辨道話」という巻があります。この辨道話の「辨」という字は、「わける・わきまえる・けじめをつける」といった意味があります。私が修行していたお寺のご住職が言うには、「選ぶ」という意味も持つのだそうです。真剣に正しい道を選びながら生きていくこと。それはまさしく仏教と呼べるのでしょう。
2013.6.25
第83話 畔柳 公潤 Kuroyanagi Kojun 
「坐禅」について
「ざぜん」には二つの表記が」ある。坐禅と座禅。
「坐」はすわるという動作を、「座」はすわる場所を表すことから、元々は坐る行為の「坐禅」であったが、「坐」の文字が常用漢字から外されたため、「座禅」の表記も間違いではない。
しかし、個人的にはやはり「坐」の字が好きだ。坐には屋根(广)がない。菩提樹の木の下でお悟りを開いたお釈迦様。その様子をあらわしているようでロマンがある。
そういえば…
今年の駒沢坐禅教室のテーマ『ちょっと私を休む時間』。
この「私」とは、自身が「これが私」と思っている「私」のこと。
社会的な「私」。
嫌いな「私」。
好きな「私」。
引っ切り無しに出てくる人間「私」をちょっとだけお休みして、坐禅という時間に流されてみる時間。
坐禅とは「私」という屋根から出てみる時間なのかも知れない。
2013.6.4
第82話 中野 太秀 Nakano Taishu ![DSC_1182[2].jpg](_src/sc2394/DSC_11825B25D.jpg)
カメラの瞬間
写真は時間を切り取ってくれる。
カメラが発明されてから200年近い時が流れ、その長い時間の中で、カメラは小さな写真の中に過去の一瞬の時間を収めてきた。
子供の成長、家族での旅行、壮大な自然風景、遠く離れた星々、歴史的な出来事・・・
多くの瞬間が、写真に収められてきた。
アルバムを開き、昔の写真を見れば当時の記憶が蘇ってくる時がある。
カメラのシャッターを切るとき、そこには映像だけではなく記憶も保存してくれるのかもしれない。
時間とは、止めどなく流れ過ぎていくもので、同じ瞬間は二度と来ることはない。
しかしカメラはその二度と来ない瞬間を、写真という形で残してくれる。
これはとても不思議なことであり、素晴らしいことである。
今日もカメラを構え、シャッターを切る。
その瞬間に一期一会の出会いを感じながら・・・。
2013.5.16
第81話 松葉 裕全 Matsuba Yuzen 
文化
最近、北海道を訪れるイスラム教徒の観光客が増えているという記事を見かけました。
記事には、観光客にあわせるようにしてイスラム教徒向けの施設・サービスを充実させる動きが活発になり、新千歳空港やショッピングモールに礼拝室が作られたとありました。
イスラム教は一日に五回の礼拝を行うことを日課としています。礼拝は聖地メッカの方向を向いて行われるので方角を示すものがなくてはなりません。ただ部屋を用意すればいいというものではなく、専用の設備がなくてはならないのです。また、飲食物も決まりがあって、食べてはならないものがあります。お酒や豚肉などがその対象で、そのために専門的な知識を持ったシェフがいるレストランも出てきているようです。
自分たちとは異なった習慣を持つ人々と交流をはかることは、事前の準備と配慮を欠かすことができません。もちろん、日本に来た以上、日本の習慣にあわせてもらうことが前提となりますが、同時にこちら側から理解しようとする姿勢も大切です。
相互理解に努めようとする意識は異文化との交流の時だけでなく、普段の人間関係にも言えることです。自分が持っている常識は相手も持っていて当然という考えでは、もし相手との意思疎通ができなかった場合争いのもとになります。相手に歩みよろうとする思いやりが気持ちのいい日常を作っていくのではないでしょうか。
2013.5.7
第80話 日比 博英 Hibi Hakuei 
あなたにとってお寺はどんなところですか?
みなさんは、お寺に行くことはありますか?
4月8日はお釈迦さまのお誕生日とされています。全国各地のお寺などではお祝いの「花祭り」の催しが行われています。
花(はな)御(み)堂(どう)と呼ばれる、小さな社(やしろ)に花飾りをほどこし、その中に小さなお釈迦さまの像を安置します。そして、お釈迦さまが生まれたとき、それを祝福するかのように天から甘い雨が降ったという言い伝えになぞらえて、その像に、甘茶というお茶をかけてお祝いをします。
私たちが毎月訪問している、高齢者福祉施設でもこの花祭りのお祝いを行いました。すると多くの方々が、「なつかしわぁ〜」とか「こどもの頃に近所のお寺でやったのよ〜」と懐かしそうに笑みを浮かべながら甘茶をかけていらっしゃいました。
漠然と、「昔はみんなお寺に行っていたんだなぁ〜」と感じました。
最近では、お寺の持つ独特の空間や雰囲気が、心の落ち着きや安心感を与え、癒しに効果があるともいわれています。
今以上に、お寺が多くの人にとっての、憩いの場になっていけば良いなと思っています。
2013.4.19
第79話 中野 孝海 Nakano Koukai 
67゜
私の視点は、どうやら人とは67°ほど違うらしい。
道を歩けば普通なら気にも留めないような些細なことに目が行ったり、人と話せばすっとんきょな意見が飛び出したり、悟りに纏わる話の題材にジョン・レノンを引っ張り出してみたり。
人とは違うことをする。それが私なのだ。
だからといって別に悩んでいるわけではない。
逆に67°という言葉を聞いた時、「あぁ、私はそんなに変わっているのか」と納得した位である。
でも、そんな変わり者でないと気が付かないこともあるし、出ない答えだってある。
大切なのは自分に自信を持つことではないだろうか?
人と違うことを気にしていては、全然前には進まない。
思い切って前に踏み出せば、誰かは必ず理解してくれるだろう。
世界は自分が思っているほど冷たくはないのだから。
2013.1.11
第78話 本多 清寛 Shokan Honda 
シューティングスター
流れ星
待ってる間に
寝ちゃったよ
キヨヒロ心の川柳
先週、双子座流星群が話題となりましたがみなさんご覧になりましたか?
流れ星にお願いをした方もいらっしゃることでしょう。私はお願いではなく、お誓いをしようと思ってました。
結局、眠たかったので流れ星を見る前に寝てしまったのですが。。。
さて、なにを誓うかといいますと、忙しいということを家に帰って言わないということなのです。
最近やらねばならぬことがたくさんあり、忙しさを感じることが多くなってきました。ですから、職場でついつい忙しいと言ってしまうことは、何となく仕方が無い感じがするのです。ただ、家に帰ってまで忙しいと言ってしまっては、どこにいてもその「忙しい」という事実から逃げられなくなってしまいますよね。
家に帰ったら、忙しいなんてことも忘れて、気持ちをすっきりさせたいものです。そんな時、私は長風呂をします。熱いお湯に肩まで浸かって眼を閉じていると、段々なにも考えなくて済むようになりますよね。
次の流星群が来たら、しっかりお誓いしてみようと思います。
2012.12.21
第77話 堀江紀宏 Kikoh Horie 
覚悟
先週の衆議院総選挙のように、日本にはもう一つ、話題をさらう総選挙があります。それは皆さんご存知の通「AKB48総選挙」です。
本家の総選挙同様にテレビ中継され、視聴率は20%に迫る人気ぶり。順位が発表されるたびに、自分の想いをファンに向かって伝える彼女たちの姿は逞しいかぎりです。その中で、リーダーの高橋みなみさんの言葉は特に印象深いものでした。
「努力は必ず報われると、私は人生をもって証明します。」
私たちは努力を積み重ねたとき、必ずその努力に見合う結果を求めようとします。しかし、「努力は報われるとは限らない」それが現実です。人が本当に真価を問われるのは、まさにその現実に直面し、必ずしも自分の思い通りにはいかないと気づいた時です。
仏教では自分の思い通りにならないことを「苦しみ」と説き、それに気づくことを出発点とします。先の話に合わせて言うならば、「努力は報われるとは限らない。けれども努力を続ける覚悟をする」ということです。今回の彼女の言葉に、この覚悟を感じました。
さらに「人生をもって」という一節。アイドルとしての活動だけでなく、自分の生き方をしっかりと見つめ、覚悟を決めた彼女の生き方。この生き方に自分の足りないものを教えられたような気がしました。
2012.12.11
第76話 大澤香有 Koyu Osawa 
ある日の出来事
先日朝、電車に乗っていたら、学生かと思われる男の人が突然目の前で床に倒れてしまいました。どうやら朝までお酒を飲んでいて、帰る途中だったようです。
その人は所々怪我をしていたようなので、私はすぐに助けを呼ばなくてはと思い、車掌さんのところまで駆けつけました。
次の駅で電車は止まり、駅員さんが男性を移動しようとしました。すると、後から体格のいい30代くらいの男性がこちらに来て、
「おい!これどうにかしろよ!これお前らの仕事だろ!こっちは急いでるんだよ!」
と、倒れた男性をおもむろに指さし、駅員に向かって怒鳴り散らしました。
「人のことを『これ』って呼ぶなんて・・。」
周囲の人も駅員さんも、目の前の状況に唖然として一瞬空気が凍りつきました。
すると、野次を飛ばした男性はつかつかと前に出て来て、倒れている男性の洋服をおもむろに掴み、乱暴に電車の外へ引っ張り出そうとしました。
駅員さんはあわてて担架を呼び、倒れていた男性を肩に担いで車外へと出ました。
ほんの5分程の間の出来事でした。
皆さん、この話を聞いてどう思いますか?
お互いに与えられた “いのち” 大切にしたいものです。
2012.11.28
第75話 三宅大哲 Daitetu Miyake 
低空飛行
最近ふと昔のことを思い出しました。約五年ほど前のことですが、その頃よく自分の心の拠り所にしていたことばがあります。
それは「低空飛行」です。低空飛行とは、一般的にはレーダー等から見つからないように地上ギリギリを飛ぶことですが、私は自分の生き方に見立て、少し違った解釈をしていました。
私の低空飛行は、上空に向かって高度を上げることもないけれど着陸することもありません。あまり目立つこともないけれど、地道に地表を飛んでいる。向上心がないとも言えるかもしれませんが、その利点は粘り強いということです。遥か上空を飛んでいれば墜落した時のダメージは計り知れないでしょう。けれど低空飛行だと、たとえ墜落したとしても少しの修理で何度でも飛び立てます。今思い返すと面白いなぁと感じますが、当時は結構自分を支えていたことばでした。
最近の自分はどうかなぁと改めて考えてみると、実行できているかは別ですが、なるべく広く物事を見渡せるように心がけています。それは飛行機に喩えると上空も地上も見渡せる高度になるのでしょうか。昔よりも少し飛べる空域が広がったのかなと感じた今日この頃です。
2012.11.16
第74話 寺門典宏 Tenko Terakado 
言葉
言葉は時として無力だ。
自分の気持ちを正確に伝える表現などないからである。
突然、このようなことを書くと投げやりに思われだろう。
だが、そんなことはない。
私は音楽が好きだ。
以前、音楽ライターの仕事をしていたことがある。
音楽ライターは音楽を聴いて音楽雑誌などで評論をする仕事だ。
音楽を言葉で表すことはとても難しい。
例えば「この曲を聴くと魂が揺さぶられる」と書いたとする。
この書き方だと音楽ファンに共感されても、興味がない人にとって抽象的に
聞こえる。
では、具体的に書くとしたらどうなるか。
「この曲の何小節目のこのギターの音が素晴らしい」と言ったらどうか。
これで相手に伝わるであろうか。
的確に伝えることはできても、曲の良さは伝わらない。
音楽は感性そのものであり適当な言葉を見つけ表現することは容易ではない。
言語化することは私にとってとてももどかしい。
私は坐禅も好きだ。
坐禅に言葉はいらない。
自分の気持ちを無理に吐露する必要もない。
文字に限らず、ありとあらゆる束縛から離れ坐るだけだ。
言葉に一喜一憂することもない。
善し悪し関係なく、ただひたすら坐る。
人間関係を含め言葉から離れられる時間はホッとする。
2012.11.6
第73話 澤城邦生 Hosho Sawaki 
『This is not my problem. It is your problem.』
タイトルは最近読んだ本の一節です。訳すと「これは私の問題ではなく、君の問題だ」となります。何か冷たく感じる一言にも聞こえますね。しかし本当は違うのです。
例えば、誰か困っている人の話を聞く時のことを想像してみて下さい。往々にして相手の話を聞いている内に、何か相手のためになるようなアドバイスをしてあげたくなりませんか。もしくは「君の考えもわかるが、それは違うよ…」とか「みんなも苦しいのだよ…」と相手の考えを否定したり、話を収束させたくなる気持ちになったりもします。普段、人と接する中では、このような気持ちは当然のことです。しかしそれでは「聴く」ことにはなっていません。これは「自分の立場」からの思いであり、「自分だったら…」という前提が無意識に働いてしまっているのです。
だからこそ、上記の「This is not my problem. It is your problem.」という意識を忘れず、相手の立場に立つことが大切なのです。これは、冷たい言葉ではなく、相手を尊敬する気持ちの表れととれます。
人の苦しみを他人が意図的に取り除くことは困難なことです。しかし、「聴く」という行為に徹していけば、もしかしたら悩める人が自分自身の力で立ち上る、ちょっとした助けになれるかもしれません。
2012.10.23
第72話 羽賀孝行 Koko Haga 
今、私が精いっぱい考えていること
こんな簡単なことに気づくために、ずいぶんと回り道をしてしまう自分のことを、
ほんの少しだけ、好きになれそうな気がした…。(羽賀孝行)
私ごとですが、今年は様々な苦難と出会いました。まるで向こう数年分の不幸がいっぺんに降ってきたように、私の平穏な日々は覆されてしまいました。毎日を平和に、のんびりと過ごしていきたい…。それだけが自分の望みであったというのに。
「やれやれ、これが無常ってやつか。」
などと、軽口のひとつも叩きたくなるくらい、心打ちのめされることばかりでした。
どうやら私は、人に頼るということが苦手なようです。自分の問題だからと他人の介入を避け続けていたら、世界が自分とは違う軸で回転しているかのように、自分だけがどこか取り残されていくように感じました。
孤独というのでしょうか。いつもお腹の中に、真っ黒で重たい泥がたまっているような感じでした。
それでも、世の中にはおせっかいな人間がいるものですね。そんな私なんかの話を、いちいち聞いてくれる人もいました。本当は誰かに声をかけてもらいたかったのか、つい私もいろいろと身の内を話してしまいました。
なんてお人好しなんだろうね。
そして、なんて温かいんだろう。
涙が出ちゃうじゃないですか…。
あるいは、悲しみというものは一生背負い続けていくものなのかもしれない。でもその悲しみは、他の誰かと分かち合うことはできるんだ。
そう思ったとき、私の心の中に、とても優しい幸福感が満ちていくのを感じました。
2012.10.12
第71話 松葉裕全 Matsuba Yuzen
変わらぬものなし
今まで、私はイエス・キリストには妻はいないものと思っていた。
そんな折、とある記事を見かけた。
なんと、イエスが自分の妻について、言及する古代の文献が見つかったというのである。
ただ、現時点で妻がいたことに関しては学術的に決定なのではない。厳密に調査し、証拠を揃えたうえでこの文献に書いてあることが本当かどうか確かめられるが、もしこれが真実であるならば歴史的な発見となる。
キリスト教はイエスには妻がいないことが前提で教えが広められてきたが、今後は修正しなくてはならなくなるかもしれない。
映画「ダヴィンチ・コード」ではイエスは磔刑(たっけい)に処されたが一命を取り留め、妻と共に南フランスに逃れ、子どももいたという内容になっている。この映画を観た人は、この記事とのリンクに興味を持ったのではないだろうか。映画の中での出来事が現実になるかもしれない。なんともわくわくする話である。
私は、歴史とは過去の事実が積み重なっているもので変わることはないと思っていたが、今回の記事を見て、実際はふとしたきっかけで変わってしまう不確かなものだと気付いたのである。
仏教では「諸行無常」というが、その言葉通り変わらないものはないのだなと改めて思った。
2012.10.2
第70話 日比博英 Hibi Hakuei
整理整頓
私の部屋にはものがたくさんある。
そう。私は捨てられない人間なのだ。
しかも情けないことに、整理整頓もてんで苦手だ。
そんな私でも、大学生活を終えて永平寺に修行に行くときには、なんとなく大事に思ってずっと手放すことが出来なかったものをたくさん処分した。
一人暮らしの部屋を引き払っていくのだから不可避のことでもある。
物質的にたくさんのものが無くなって「出家の第一歩だなぁ」と思った。
持っていけるものはざっと、着物や下着(白無地)など身につけるものと、手ぬぐい(白無地)、歯ブラシ、そしてヒゲと髪を剃るためのT字カミソリくらいだ。
ちなみに持っていける数も決められている。
修行道場では、ものを置く位置について数センチ、数ミリ単位で気を遣う生活をした。
あれから4年を経て、共同生活の修行に一区切りつけ、また一人暮らしを始めて半年。
「身の周りを整える。」少しは身に付いたと思っていたが…。
…ものが増え始めた。
…そして、明らかに雑然としている。
雑然としているのはきっと、部屋だけではなく心の中もしかり。
ものに囲まれ、慌ただしい日々の中で、いかに心を整然と保ち、清貧に暮らしていくかが目指すべきところとも言える。
早速、整理整頓。
2012.9.7
第69話 中野太秀 Nakano Taishu
田舎パワー
都心に務め始めてから約半年が過ぎ、ふと実家に帰ろうと思った。
実家は都心から電車で約2時間半の、関東地方の端っこに位置している。
周りを山に囲まれた田舎だ。
その日は、夏ではもうお馴染みの猛暑日。
外に出ると、すぐに汗が吹き出してきた。
天気予報で確認したら、実家は都心よりも気温が2、3度高い。
少し憂鬱な気分になりながら電車に乗った。
地元に到着し、電車を降りると違和感を感じた。
あまり、暑くない。
確かに日差しは強いが、肌にべとつく様なジメジメした空気を感じなかった。
両親に聞いてみると、今年はまだ数えるぐらいしかクーラーをつけてないらしい。
これが田舎パワーか、そう思った。
科学的データや数値も大切だが、実際に自分の肌で体験してみないと分からないものが色々あるものだ。
そう考えさせられる帰郷だった。
2012.7.24
第68話 中野孝海 Nakano Koukai
諸行無常
先日、我が家に子猫がやってきた。
近くの道路で立ち往生していたところを私の姉が保護し、そのまま面倒を見る事になったらしい。
チョコと名付けられた生後間もない小さな子猫。
こいつが可愛い。すこぶる可愛い。猫好きである私にとって、まさにたまらない存在である。
この可愛さがいつまでも続いて欲しい。
しかし、この世は無常。そうは問屋が卸さない。
我が家で飼い続けている老猫、ミカンがそれを証明している。
飼い続けること早十二年。その間に随分無愛想になり、貫禄もついてしまった。抱き上げるのも一苦労である。
この子もいずれ、そうなってしまうのだろう。
この世は無常。無常なのである。
……それはそれで味があっていいのだが。
※「諸行無常」
この世のありとあらゆるものは常に変化し続けることへの儚さを表した言葉
2012.7.17
第67話 畔柳公潤 Kuroyanagi Kojun
イギリス人と
外国の方と文字のみで交流する機会があった。いわゆるネットである。
相手はイギリスの方であった。
知っている単語をぶつける様な荒っぽい交流ではあったが、会話にはなっていた。
初対面では当然の流れで「あなたは何をしている人?」と、イギリス人。
私は僧侶である。が、単語がわからない。知っている単語を並べ何とか答えようとした。
「I study ZEN」 (私は禅を学んでいます)
何となく伝わった。禅はイギリスにもあるようだ。
すると「禅とはいったい何ですか」と、根本的なことを聞かれた。…ような気がした。
私はしばらく考え、また知っている単語のみで答えた。
「I want to understand about me,others,and life」
(私は自分、他人、そして人生を理解したい)
私は自分の書いた文字でハッとさせられた。
もし相手が日本の方であったなら、もっと飾られた言葉が出てきたのだと思う。
でも、結局私はこれがしたかったんだと、自身のシンプルな単語によって気付かされた気がした。
話が終わった後、遠い異国の地を想い浮かべ自然と手が合わさった。 合掌
2012.6.29
第66話 本多清寛 Shokan Honda
こどもに教わる
先日、黄色いMのマークでおなじみのハンバーガーの店で書き物をしていた時のこと。
私は音楽を聴きながら、パソコンに集中していました。
すると「ねぇねぇ、これなぁに?」という声。
驚いてパソコンから目を離すと、目の前に私が机に置いていた腕時計を持って笑っている、五歳くらいの男の子がいました。
私は「うでどけいっていうんだよ。」と答えました。
その子は理解してくれたのか、そのまま席に戻って行きました。すると、何かを手に持って私のところにやってきたんです。
「これねー、けてぃっていうんだよ。すごいー?」
そう言って、セットに付いてきたキティちゃんの人形を私に見せてくれました。男の子でも嬉しいものなのかと思いを巡らしていると、男の子はその人形を振り回して遊び始めたんです。まるでスーパーマンが飛んでいるような感じでした。
スーパーキティとなった人形は、店内の至る所を飛び回り、周囲の人を笑顔にしていきます。
その子がおじいちゃんに叱られるまで。
もし、私が隣の席に置いてあるものを勝手に触ったら、その持ち主は不快に思うでしょう。
もし、私がキティちゃんの人形を振り回し、店内をうろついたら、店員さんに止められてしまうでしょう。
私は大人だからどちらも行いません。それは親に叱られてきたからです。
子どもは、場所がどうであれ人がどうであれ、自分のやりたいことをやりたいだけ行います。もし、それが間違った行為ならば大人に叱られるのです。自分が子どもの時、どんなことをやって叱られていたか、今の自分は本当に叱られずにすむ人間に成っているのか。
その子のおかげで、自分を振り返るいい機会をもらえました。
2012.6.7
第65話 寺門典宏 Tenko Terakado
空からの落し物
朝、足早に駅へ向かうと空から何かが落ちてきた。
「おやっ、雨か」と思ったが、空はカラッと晴れている。
空に向けていた視線を私が着ていたスーツに移すと、スーツに何かついていることにふと気付く。
鳥のフンが空から落ちてきたのだ。
うん十年、生きてきて初めてのことで戸惑った。
昔の私だったら怒っていたかもしれない。
やりきれない気持ちはあったものの「鳥も生活しているのだ」と思い合点した。
私は朝起きて、顔を洗い、ご飯を食べ、歯を磨いてトイレに行き出掛ける。
鳥は、顔を洗ったり歯を磨いたりしないが日常の生活をしている。
今回の一件で、普段私たちが地上で生活しているように、鳥が空で生活していることに改めて気付かされた。
私たちは日々生活をしていると当たり前のことすら気付かなくなってしまう。
昔の禅僧は石ころを蹴って竹に当たった音を聞いて悟ったり、桃の花が開いて悟ったりした。
私も鳥のフンから鳥が空で生活していることに気付いた。
今回の出来事で少しずつ禅の境地へと近づいているのだろうか?
と思ってしまった私はまだまだです。
これからも坐禅を含め日々精進していきたいと思います。
2012.5.17
第64話 三宅大哲 Daitetu Miyake
花
私はゴールデンウィーク、実家のある宮城に帰っていました。今年は例年より桜の開花時期が遅かったので、ちょうど帰った頃に満開の桜を見る事ができました。しかし、その数日後の大雨で全ての桜が散ってしまい、一日で様変わりした様子を見て何だか物寂しい気持ちになってしまいました。
けれど、次の日にはもう青々とした葉が茂っているのです。桜ってすごいですね。今までは桜の花しか見ていなかったので、緑に包まれた桜の木も目が癒されていいなぁと感じました。
ここで私の好きな詩を一つご紹介します。
「咲くも無心 散るも無心
花は嘆かず 今を生きる」
これは「念ずれば花開く」という言葉で有名な坂村真民さんの詩です。
花を見て綺麗だと思ったり、花が散って寂しいと思ったりするのは人の心であり、花自身は、憂いや哀しみに揺れ動かされるわけではありません。何事にも動じず、ただ時期が来れば花を咲かせ、また散っていきます。
花のように、その時々を精いっぱい生きていこうと思います。
2012.4.27
第63話 澤城邦生 Hosho Sawaki 
忘れる
記憶力が落ちました。
数年来、本を読んでも、TVを観ても登場人物や俳優の名前等をすぐに覚えられなくなってきたのです。年齢のせいなのか、もともと覚える気が無いのかわかりませんが、「忘れっぽくなったな〜」と最近つくづく思います。私も今年で32歳になり、メンバーの中では年長の部類に入りますので、大切な事はメモを取るなどして対策を講じています。しかし自分の記憶力が落ちるというのはショックなことですね。
しかし、一方で「忘れる」ことは悪いことばかりではありません。日常生活の中で体験する様々な出来事。良いこともあれば悪いこともありますが、その体験が常に鮮明に記憶に残っていたらどうでしょうか? 特に悪い記憶を常に引きずったまま、生きていかなければならないとなると、これほど辛いことはないでしょう。
「人は忘れることによって生きていける」
ともいいますので、「忘れる」ことを前向きに捉えていこうと思います。
2012.4.13
第62話 羽賀孝行 Koko Haga 
願い
私たちShojin-Projectの運営する坐禅会、「駒沢坐禅教室」が今年度の開講を迎えました。先月開催した「東京禅僧茶房2012〜はじめての坐禅〜」(当ホームページ参照)の影響もあってか、初回に当たる4月12日にはたくさんの方に参加していただき、大盛況の坐禅教室となりました。
さて、私はこの坐禅教室の運営において広報を担当していますが、チラシやポスター作りなど、作業に当たる上でいつも心がけていることがあります。それは「名聞利養(みょうもんりよう)」を離れるということです。名聞利養とは名誉や利益を求める心のこと。私たち僧侶の行いは常にこの心を離れていなくてはなりません。「広報」という役割を考えれば、坐禅教室の情報を多くの方に知っていただき、参加者を募るのが目的です。しかしながら、そのために必要以上に良く見せようとしたり、参加者の数だけを目標としていては道を外れてしまうのです。
私たちの活動の源は、「誓願」です。少しでも多くの方に坐禅を知っていただきたい。少しでも多くの方に仏教に触れていただきたい。そして、少しでも多くの方に、より良き道を歩んでいただきたい。そうした願いを、いつも忘れないよう心にとめておきたいと思います。今年度もどうぞよろしくお願いいたします。
2012.3.21
第61話 守長修浩 Shuco Morinaga 
型破りなものをつくりたい
私は、shojin-projectにおいて、主にWEB等のデザインを担当してきました。以前にデザインの仕事をしていたわけでは決してありません。ちょっと興味があったからと全くの素人が担当を受け持ちました。
最初の頃は、デザインと言えば自分の個性を出すものだ。型破りなデザインを生み出していくぞ!と息まいていたものです。
しかし、そんな思いとは裏腹にゼロからのもの作りというものは、とてつもなく難しく、思い描いていた形をなかなか生むことが出来ません。仮に出来たとしても、それは今振り返れば出来そこないでした。
そんなもがきを続けていた時、ある事に気がついたのです。
「あ、真似ればいいじゃん」
世には、先人達があみ出したデザイン群が多数あります。その形を真似ることで、良いデザインが出来上がる。そんな当たり前の事に気付いたのです。
真似るなんて聞くと悪いことに聞こえるかもしれません。でも、最初は何でも真似、真似、真似。書道の臨書・先輩の真似・会社のマニュアルなどなど。最初は真似から始まります。
それをおろそかにしていたら、それはただの「形無し」だと思うのです。
基本の形が出来てから個性を出す。それが「型破り」の本当の意味だと思うのです。
そんな当たり前の事に気付かせてくれたデザイン。本当の型破りを目指して、まずは一歩一歩基本の形を習得していきたいと思います。