禅僧小噺
2012.2.14
第60話 大澤香有 Koyu Osawa 
魔法のお片づけ
皆さん、『人生がときめくお片づけの魔法』(サンマーク出版)という本をご存知でしょうか?これは、近藤麻理恵さん(こんまりさん)という方がお片付けについて長年研究に研究を重ね編み出した手法を書き綴ったものです。
「魔法?」と思い、好奇心旺盛な私はこの本を見かけた時に思わず手に取りました。実は私、何を隠そう片づけが大好きなのです。しょっちゅう家中の物を引っ張り出して片付けをし、キレイになった部屋を見て、「自分は片づけ上手だ!」と思っていました。ところがこの本では、「片づけで大切なことは、ときめかないものは捨てること!」、「自分の部屋と心は繋がっているのです!」と書かれていました。これはなんてことでしょう!今までそんなこと考えたこともなく、むやみに片づけに時間を費やし、自信を持っていた私はガツンと頭を殴られた気分でした。
「うーん。これはおもしろい!」と思い、その日は夜中過ぎまで部屋中をひっくり返し、この本を読みながら片づけをしてみました。すると、どうでしょう。みるみると部屋は片づき、「ときめかないもの=本当は必要としていないもの」だったのだという事に気づきました。そして、一つ一つの物に思い出や自分の気持ちがあるので、未練を持ちたくなるものもあったのですが、思い切って手放してみると、自分の中にあった本当はいらないのに“なかなか手放せない”思いがどれだけ多くあったのかということに気が付きました。しかも不思議な事に、ときめかなかったものたちは手放した後に恋しく思う事もありませんでした。なんだか胸がすっきりしました。明日が楽しみになりました。
部屋を変えるだけで、自分の心と生き方が変わることもあると思います。皆さんも気分転換を兼ね、たまには思いっきり部屋の中の「ときめかないもの」を捨て、心の中もすっきりさせてみませんか?
2012.2.8
第59話 堀江紀宏 Kikoh Horie 
「食」への感謝
先日、福井県にある大本山永平寺へ行ってまいりました。永平寺では常に200人にも及ぶ僧侶が修行に励み、受付を担当する者、参拝者のお世話を担当する者など、それぞれに役割が与えられます。
そして食事を作るのにも担当者が決められ、担当になった僧侶は皆よりも早く目を覚まし、一品一品こころを込めて調理をします。今回、そのこころが沢山詰まった料理を味わいながら、道元禅師のある言葉を思い出しました。
「清浄なる常住食(じょうじゅうしょく)を以って飢を除き、命をささえて行道するばかりなり」
こころを込めて作られた料理を、感謝しながらいただいて生活するのが、仏道修行であるということです。現代の日本では食べ物に困る人はほとんどいません。それ故に「食」に対する感謝の気持ちが薄れつつあるのも事実です。
しかし、世界に目を向けると7人に1人が飢えに苦しんでいるというデータがあります。当たり前のように食べられることが、どれほど恵まれているのか。道元禅師の言葉を胸にいま一度、目の前の食事に心から手を合わせたいものです。
2011.12.22
第58話 三宅大哲 daitetsu Miyake 
ある日の休日
早いもので今年も残すところあと僅かとなりました。
12月は師走というように、私も、最近何かと忙しいなぁと感じることがあります。皆さんにも経験があると思いますが、忙しくなると日常生活の細かい部分に目が届きにくくなってしまうことがあります。
例えば洗濯。私は現在一人暮らしで、もちろん私しか家で洗濯をする人がいません。
「今は時間ないし、後でやればいいや」と思い後回しにしていたら、気づいた時には、二週間近く溜まっていたという事があります。二週間も溜めると一人分とはいえ、凄まじい量でした。狭い部屋の中、洗濯物を干す場所にも苦労し「何でもっと早くやらなかったんだろう」と後悔しながら、一日に三度も洗濯機を回していました。
何にでも言えることで当たり前のことですが、やはり、思い立ったとき、気づいたその時にやるということが重要ですね。
どんなに忙しくても目の前のことに一つ一つ向き合っていく。日々の積み重ねの大切さに改めて気づかされたある日の休日でした。
2011.12.14
第57話 守長修浩 Shuco Morinaga 
電車内戦争
朝、会社へと出勤する者には戦いがあるのです。
それは、主に始発駅で繰り広げられる、電車内の座席を奪い合う戦いです。
電車が構内にゆっくりと入ってくるその瞬間、ホームは緊張のピークを迎えます。皆、我先にと好敵手をかき分け、空席へと向かって一直線。
見事勝利を収め、座席を手にしたものはそれぞれ安堵の眠りを。敗れたものは、悔しそうにつり革につかまり、まだあきらめ切れないものは、血眼に空席はないかと隣の車両へとさまよい始めます。
ある高校では、電車やバスの座席に座ってはいけないという校則があるそうです。少々やりすぎな気もしますが、自分が座席に腰をかけないことで、他の誰かが代わりに座れ、身体を休めることが出来る。そんな素敵な仕組みがそこにはある訳です。
電車の座席は決して自分のものではないですよね。この高校のように他者に譲り合う心を皆が持てば、車内の戦いは終りに近づくのだと思います。
2011.12.7
第56話 赤間泰然 Taizen Akama 
古書めぐり
先日、久しぶりに馴染みの古本屋さんを訪ねて“古書めぐり”をしました。有名なお店よりも街中にひっそりとある小さな古本屋さんが私は大好きです。
元来本好きな私は、もちろん新刊も好きですが、本棚の片隅に隠れるよう置かれたり、積みあがった本の陰にポツンと置かれている懐かしい本を見つけると、思わず手に取らずにはいられません。
私が良く読む古い仏教書の中には、時々文字や線が書き込まれていることがあります。そうした文字や線を見つけると、その本がどのような経緯で私の手元に届いたのか、つい想像してしまいます。
また、前の持ち主の考えや思いに触れたようで、思わず頷いてしまったり首を傾げたりと、何とも言えないこそばゆい思いもします。そして何よりも、多くの人に愛されて読まれたであろうこの本が、こうして私の元へと巡り合った不思議なご縁に、私の心はときめいてしまいます。
最近人々の活字離れが問題視されているそうです。新しい本に中々馴染めなかったり、とっつき難い人には、“古書めぐり”をして懐かしい本に巡り合う。そんな時間があっても良いのかな?と、つらつら考えた休日の昼下がりでした。
2011.11.22
第55話 本多清寛 Shokan Honda 
空の色
私は空の色がとても好きです。
空の色を見ていると、それまでうじうじ悩んでいたことがなんだか消えていくような気がします。
さて、私はどんな「空」が好きなのでしょうか?
秋晴れの時期ですので、晴れ渡った青空を考えた方もいれば、夕焼け空を思い浮かべた方もいらっしゃると思います。
言葉の意味は一定ではありません。単純に何かの名前を言ったとしても、あなたと私では違うものが思い浮かんでしまいます。だからこそ言葉には気を付けなければなりません。
私は「空」が好きです。
秋晴れの青空も好きですし、夕日の沈む赤い空も大好きです。
わたしにとって好きな空。それはあなたが好きな空とは違うかもしれません。
けれども、空が好きということは同じではないでしょうか。
秋晴れの大きな空でも見ながら、「言葉の意味」について考えてみませんか?
2011.11.11
第54話 堀江紀宏 Kikoh Horie 
心の拠りどころ
先日、新聞で面白い川柳を見つけました。
「家出する リュックの場所を 母に聞く」
家出を決意しながらも、たった1つのリュックさえ見つけることが出来ない。普段の生活で自分がどれだけ周りの人に頼って生きているのかがわかります。
この川柳を見て、「情けないなぁ」と思った人もいると思います。しかし、人間は何にも頼らずに生きていくことは絶対に出来ません。生きていれば誰だって、悩んだり悲しんだりすることは当然ありますし、誰かの助けがほしいと思うことだってあります。そんなときは、自分の身も心も委ねられる拠りどころを見つけてみてはどうでしょうか?
仕事や人間関係などに悩み、どうしても行き詰まってしまったとき、自らを委ねられる拠りどころに身を置けば自然と安心できる。時代の進歩と共に、悩みも多様化している現代です。自分に合った拠りどころを見つけ、しっかりと身と心を休めることも大切です。
今年、私たちが企画している一日参禅会(11月26日)のテーマは「帰家穏坐(きかおんざ)」。わが家に帰ったときに心の安らぎを感じるのと同じように、仏様の家(仏様の教え)を拠りどころとして安らぎを得る。私もひとりの僧侶として、仏様の教えが多くの人の拠りどころとなるよう精進してまいりたいと思います。
2011.10.28
第53話 大澤香有 Koyu Osawa 
悩み
今回は一つ、思い出話をしたいと思います。実は私、修行していた時に涙が出る程悩んだ事がありました。その悩みとは、「自分が何をしたいのかわからない」というものでした。「そんな事でいちいち悩むな!」と思われる方もいるかもしれませんが、当時の私はこれがわからなくて、どうにもこうにも切なくて仕方がなかったのです。毎日仏様の前で手を合わせ、自分と仏様に問いかけ、答えを欲しがりましたが、結局答えは出ませんでした。
ところが、月日が経ち思い返してみると、まさにその苦悩の月日こそが自分自身の求めていた答えであったのだという事に気づきました。これは一体どういう事だったのでしょう?
何かを求めて彷徨っていた間、私という人間はそこに存在していました。自分がわからなくて、でも前に進みたくてひたすらに行じていた姿そのものこそ、当時の私が求めていた答えだったのです。
誰も答えをくれない悩みに苦しみましたが、今思うと、そんな苦しみがあったからこそ何事にも一生懸命に取り組み、精進する事ができたのです。
悩み苦しみはどこへ行ってもついてくるものです。だけれども、諦めずに前に向かって進む事ができたら、その時、答えは同時についてくるのかもしれませんね。
2011.10.18
第52話 輝元泰文 Taibun Terumoto 
皆さんは、今どこにいますか?
先日、兵庫県安泰寺に参禅しました。安泰寺は、人里離れた山中で田畑を耕しながら、国内外から来た多くの参禅者が日夜修行に励んでいる場所として知られています。純粋な修行に徹したお寺である安泰寺に参禅することは、私にとっての念願でした。
滞在中、あるフランス人の修行僧が話して下さった言葉が、非常に印象に残っています。
“Hondo can be everywhere!”
これをわかりやすく訳せば、「あなたがいるところならどこでも、そこがお寺の本堂になりうる」という意味になります。皆さんは、これを想像できますか?
例えば、こう考えてみてはいかがでしょう。私たちが家でくつろいでいるときは、心も家でくつろいでいます。しかし、そこで仕事のことを考え始めると、まるで心だけが会社のデスクに行ってしまったようになってしまいます。
そうすると、とても家でくつろいだ気分にはなれません。しかし、同じように考えれば、会社にいながら心だけお寺の本堂に行くこともできるのではないでしょうか。会社にいるときでも、学校にいるときでも、そこがお寺の本堂であるかのように少しの時間、姿勢を整え、呼吸を整えてみれば、私たちはいつどこにいても心の静寂を得られるのです。
それが「Hondo can be everywhere!」の私なりの解釈です。
さあ、みなさんも今・ここをお寺の本堂にしてみませんか。
2011.9.27
第51話 羽賀孝行 Koko Haga 
真実の音色
先月、私はお盆の手伝いをするため兵庫県のとあるお寺に滞在していました。そのお寺ではお昼と夕方に『梵鐘(ぼんしょう)』という、お寺にある大きな鐘を打ちます。そして私は滞在中その梵鐘を打つ役を任されていました。
ある日、私が鐘を打ち終わり戻ろうとすると、お参りの男性がひとり、梵鐘に向かって合掌をしたまま立っておられました。男性は私に一礼をすると、言葉を交わさず去っていかれました。私はその男性の神妙な面持ちにどこか心を打たれながら、後ろ姿を合掌で見送りました。
そのお寺では梵鐘を打つ際、まず三度の礼拝をし、一度打つごとに一度の礼拝、さらに打ち終わった後にも三度の礼拝をします。そしてその礼拝のたびにこのような祈りを込めるのです。
『この鐘の音を聴くことで、生きとし生けるものが多くの迷い苦しみから解き放たれ、真実の道を見出せますように』
と。
その男性が何を思っておられたのか、私にはわかりません。ですが一僧侶として、鐘の音のひとつひとつに祈りを込めて、真実の音色を届けようと思います。
合掌
2011.9.8
第50話 寺門典宏 Tenko Terakado 
信じるということ
先日、某所で精神的な病を専門とする先生に、トラウマから解放される体操を教わる機会があった。トラウマとは、個人にとって心理的に大きな影響を与えることで、精神的ショックから立ち直れず、長い間、心の傷が癒えないことである。
体操自体は誰にでも簡単にできる。この体操を教えていただいた先生は「始めのうちは1週間から10日間、欠かすことなく続けるとよい」とおっしゃっていた。
体操を終えた後、すがすがしい気分になったものの、私にとって体操を続けることは難しいと感じた。体操を継続的に行えば、結果は自ずと分かる。それ以上に、この体操の効果を信じきれていない私がいた。
私は僧侶になる前、神も仏も信じていなかった。そんな私が、ある時、僧侶を志すため大学で学び、仏教の琴線に触れ、信じることの大切さを学んだ。先生の講義はもちろんのこと、個人的に坐禅や読経などをすることで、より深く仏教を信じることができ、当時の私の心の悩みの支えとなった。
宗教だけが信仰ではない。信じる対象は人、物を限定しない。自分、家族、友人、恋人を始め、身近な存在は肯定できないが趣味、また芸能人の言葉などであれば信じることができることもあるかと思う。
僧侶となった今、信じることはどんな困難でも乗り切る力があるのではとないかと、体操を終え帰る道すがら、ふと思った。
2011.8.31
第49話 澤城邦生 Hosho Sawaki 
共同湯
写真は伊豆の実家の近くにある共同湯です。地域の人々が協力して維持しているもので、私も子どもの頃よく通っていました。温泉がひかれているこの浴場には、夕方になると多くの人が集まってきます。
夏は一風呂浴びた後、ベンチに腰かけて夕風で涼みながら「邦ちゃん大きくなったね〜」などと、みんなでよもやま話をしたものです。今振り返ってみると、近所の人達の憩いの場であったのだろうと感じます。
この夏、帰郷した際に聞いた話では、共同湯に入りに来る人はめっきり減ったそうです。この地域は若い人が減り、子どもの遊ぶ声もあまり聞かなくなりました。一人で住まわれている高齢者の方も多く、全体的に人口が減少していて、我が故郷も過疎化・高齢化が進んでいるようです。地元の方から、
「この辺もさみしくなってきた。帰ってきなよ」
と言われて、言葉に詰まってしまいました。
若い頃は「こんな田舎からは絶対に出ていってやる!」と思い故郷を飛び出しました。しかし、閑散とした寂しい共同湯を見ていると、自分の選択が正しいかどうか…わからなくなってしまいます。
「自分は独りで生きているんだ」と思っていましたが、実は様々な支えや繋がりによって自分は生かされていることに気づきました。そう思うと「故郷のために生きる」というのも、自分にとって一つの道なのかもしれません。
2011.7.29
第48話 本多清寛 Shokan Honda 
禅僧の心得
子どもって本当にかわいいですよね。
私がお手伝いしているお寺に、もうすぐ三歳になる男の子と一歳になったばかりの男の子がいるんです。最初は私に人見知りしていた二人も、だんだん慣れてきて、「しょうちゃん」とか「しょうかんくん」と呼んでくれるようになりました。
けれども一緒に遊ぶのはかなり大変で、毎回ヘトヘトになってしまいます。ただ、一緒に遊ぶとすごく充実した感じがあって不思議な感覚になってしまいます。一体なぜだろうと考えていたのですが、最近気がつきました。
『一生懸命になっている』
誰が一生懸命なのか。私なんです。初めは子ども達と遊んであげているつもりの私が、いつのまにか一緒に遊んでいるんです。子どもは、次があるから時間があるからとか、余計なことは一切考えずに今すぐにやってしまいます。やるって決めたことに対してまっすぐに進んで行きます。そして力尽きたら寝てしまう。この一生懸命さにあてられて、私も一緒に遊んでしまうのでした。
私が永平寺で修行していた時に、ある方がこんなことを仰っていました。
『時は今、場所はここ、やるのは自分』
私の好きな言葉です。まだまだ禅僧見習いの私ですが、いまここじぶんを心得て、その時を修行していきます。
2011.7.20
第47話 堀江紀宏 Kikoh Horie 
思いやりの気持ち
3月の震災以降、「今、自分に出来ること」という言葉をよく耳にするようになりました。
街頭では義援金を募る活動が行われ、日常生活でも節電を中心に様々な取り組みが行われています。
では、ここまで人を突き動かす原動力は何なのでしょうか?
例えば、節電ひとつとっても、夏が近づけば毎年のように言われてきたことです。しかし、今夏ほど節電の必要性にせまられる年はないでしょう。確かに電力が足りなくなって自分の生活が困る。そういったこともあると思いますが、それ以上に被災された方々への思いやりが根底にあるのではないでしょうか。
私がそう思うようになったのには、ある高校生の言葉が大きく影響しています。今春の甲子園大会、宮城県の生徒が「仙台から甲子園にきて、気持ちが切り替えられましたか?」という質問にこんな答えを口にしていました。
「仙台の人を忘れる事は出来ない、だから切り替えるという言葉は使いたくない。」まさに思いやりの心が全面に現れた言葉です。ともすれば思いやりの気持ちがあるからこそ人は何かをせずにはいられない、そう気づかされた言葉でもありました。
思いやるということ、まさに誰にでも共通する「今、自分に出来ること」を大切に生活していくことが、そのまま復興の一番の力になるのだと強く感じました。
2011.7.7
第46話 大澤香有 Koyu Osawa 
スーパーマン
電車に乗って辺りを眺めてみると、たくさんの人がいますね。
「世の中にはたくさんの人がいるものだなぁ。」とつくづく思ったりします。
みんなそれぞれに、本を読んだり、携帯をいじったり、ゲームをしたり、
寝ていたり・・。
それを見ると、人ってすごいなぁ。って思います。
えっ、一体何がすごいのかといいますとね、例えば電車に乗る時、
「右足をここまで上げてこのタイミングで前に出してここをまたぐ!」と意識して歩く人はあまりいません。
しかし、私たちは何の特別な意識を要せずになんなくこれをやり遂げるのです。
実は、これはとてつもなくすごいことではないのか!?
そんな事を考えていると、目の前の人一人一人がすごい事をしているスーパーマンのように思えてきます。
なんとも当たり前の事なのに、こんな事ができるなんて、これが未だ科学では説明できない人間の特性なのでしょうか。
こんなに素晴らしい働きに、もっと感謝しないといけませんね。これからも、思いやり、人間らしさ、感謝を忘れずに、日々過ごして行きたいです。
2011.7.1
第45話 三宅大哲 Daitetsu Miyake
青い薔薇
先日とある花屋で、青い薔薇を発見しました!話には聞いていたのですが、実物を見たのは初めてでちょっと嬉しくなってしまいました。
ご存じの方も多いかと思いますが青い薔薇が市場に出回るようになったのはここ数年のことです。これまで育種家や研究者が長年その生成に取り組んできましたが、薔薇にはもともと青色を出す色素がないので生成不可能とされてきました。以前は英語でBlue Roseと言えば不可能という意味さえ含まれていました。
それが近年、育種家や研究者の長年の努力と技術の発展により、青いバラが見られるようになったのです。とはいっても現段階では純粋な青ではなく、今も青に近づける研究が続けられています。
もともと不可能であると言われていた青い薔薇を作りだすというのは、夢のような話でしたが、さまざまな人の努力により現実になり始めています。不可能を可能にするというのは簡単なことではないでしょう。この薔薇には、製作者の希望がぎっしりと詰まっているように思います。
先の大震災から四カ月が経とうとしていますが、まだまだ安定してきたとは言えないでしょう。先の見えない世の中ですが、青い薔薇のように希望を胸に日々を過ごしていきましょう。
2011.6.16
第44話 羽賀孝行 Koko Haga
生き方としての節電
昨今、原発事故を受けて「節電」という言葉がしきりに飛び交っています。
『Yahoo』等のトップページには電力供給量が常時中継され、企業などの団体はもちろん、個人レベルに至るまで、自分たちにできる節電をしようと皆が行動しています。
しかしこの節電。今後も長期的に行っていくためには、少し視点を変えていく必要があるのではないでしょうか?
私は今、アパートを借りて一人暮らしをしているのですが、そこでの生活にかかる光熱費は平均的な費用のおおよそ半分程度です。ですが、私は特別に節電を謳っているわけではありません。
見ないときはテレビを消す。聞かないときはオーディオを消す。お風呂に入る時は居間の電気を消す。単純に、必要のないことはしない。これらはごく自然なことで、特別に力んでやっていることではないのです。
「節約」、と言うと、「普段の生活の中で特別に何か負担すること」、と思われている方が多いのではないでしょうか。もちろん、それも立派な「節約」でしょう。しかし、それにも増して大切なのは、「自分たち自身が無駄のない生き方をしていくこと」なのではないでしょうか。
節約を習慣化していく。
自分にとって負担になるだけの行動というのは長続きしないものです。そうではなく、自分の生き方として、日常の中に「節電」を溶け込ませていく。そうした努力こそ、今、必要なのだと感じます。
2011.6.9
第43話 輝元泰文 Taibun Terumoto
素食
「素食」という料理をご存知でしょうか。
素食とは、台湾の仏教徒が食べる精進料理のことです。日本で精進料理というと禅寺や専門店などでしか食べられない珍しいものですが、台湾では街の至るところで「素食」の看板を見かけます。決して堅苦しいものではなく、大衆食堂のようなお店もあれば、バイキング形式の大型レストランもあり、「素食」は台湾の日常生活に溶け込んでいます。
もちろん肉・魚は使いませんが、大豆タンパクを使った「もどき肉」がふんだんに使われているので、言われなければ精進料理だと気づかないほどのものもあります。中にはこんにゃくで作った本物そっくりのお刺身まであり、遊び心も満載です。家族で素食を食べにいくのもきっと楽しいはず。
しかし、それに比べたら日本の精進料理は、まだまだ手軽さ・親しみやすさという点で台湾の素食に遠く及ばないかもしれません。日本の精進料理もがんばらなくては!
ちなみに、日本でも、少し探せば素食メニューを出している台湾料理店を見つけることができます。皆さんも台湾素食をお試しになってはいかがでしょう?
2011.5.26
第42話 澤城邦生 Hosho Sawaki
眼力
凄い眼力…コウノトリの一種でハシビロコウと言います。
先日、動物園に行ってきたのですが、彼の前で立ち止まってしまいました。そして、しばらく彼の視線の先にいました。まったく微動だにせず、その鋭い眼で凝視されていると、私の全てを見透かされた感じになってきて、思わず「ごめんなさい」と口から出てきそうになりました。ハシビロコウは、獲物(魚)に警戒感を与えないように、何時間も不動の姿勢をとります。一瞬の隙を狙っているのからこそ、あのような鋭い目つきなのでしょうか・・・。
「眼力」とはもともと事物の理非・善悪を見分ける能力を意味し、「真贋(しんがん)を見分ける眼力」などと使われます。様々な情報が溢れている現代において、上辺だけの情報で右往左往するのではなく、立ち止まり、その奥にある真実を見極める「眼力」をもつことは大切なことだと思います。
ハシビロコウが私の内面を見抜いたかどうかはわかりませんが、私もしっかりした「眼力」が欲しいものです。
2011.5.17
第41話 寺門典宏 Tenko Terakado
絵本の力
先日、とある大学でノンフィクション作家である柳田邦男さんの講演を聴いてきました。講演会のタイトルは「生きる意味と死ぬ意味」という非常に難しいテーマではありましたが、子どもへの絵本の読み聞かせを通して明快にお話ししてくださいました。柳田さんのお話しの中で、ある小学生の女の子のエピソードがとても印象的だったので、皆さんに、ご紹介したいと思います。
絵本『でも、わたし生きていくわ』を聴いたその女の子がこんな感想文を書いたそうです。「私が大人になって恋愛をして、結婚をして子どもに恵まれる。私は幸せな家庭を築き、やがて年老いて亡くなる時、孫が私のために泣いてくれるのもうれしいけど、孫にはできれば笑っていてほしい」。私はこの話を聴いた時、恥ずかしながら、目がうるっときました。私が幼かった頃は、遊びに明け暮れ、こんなことを考えたりすることもなかっただけに、たった一冊の絵本が、これからの彼女の人生を鮮やかに描き出す力があるとは思っても見ませんでした。
柳田さんと講演会終了後、お話しをする機会がありました。「よく、私は一人で絵本を朗読します。皆さんも絵本を声に出してゆっくりと読んで見てください。なかなか味わい深いものですよ」とおっしゃる柳田さん。これを機会に絵本を手にとって読もうと思う今日この頃です。
2011.4.26
第40話 守長修浩 shuco morinaga
生き方シフト
お花見や観光旅行、はたまた会社帰りのちょっと一杯。
かの震災後、私のいる東京都下では、はなやかな行事の自粛が叫ばれました。
しかし、いま、新聞や雑誌に目を通せば、「日本経済を回さず何が復興だ!」と言わんばかりに、マスコミは脱自粛。以前の浪費生活に戻れ戻れとわたし達を導こうとしているような気もします。
なんだか違和感を感じます。
あの未曾有の大震災。
人の痛みを思い、行為をつつしむ事は人間としてとても大事なことなのでは。日本には喪に服すという文化があったはずなのでは。
企業のWEBや広告を見ると「慎んでご冥福をお祈りします」と確かに言ってはいますが、その後には、さあさあ物を買ってくれとは、なんとも矛盾しているのではとも思ってしまいます・・。
いま、この震災を機に、日本人は経済中心の生き方を改め、痛みを分かち合い助け合うこころを大切にする生き方にシフトチェンジしていく時ではないでしょうか。
まずは、無理をして経済を回そうという思いは一度置いて、被災者の気持ちを少しでもくむ暮らしを何か始めてみてはいかがでしょうか。
2011.4.26
第39話 阿部 宗道 shudo abe
復興
昨今マスコミで『無縁社会』という言葉がよく使われています。人と人の繋がりが無い社会のことです。自死の問題、独居老人の孤独死の問題、若者の引きこもりの問題等、全て無縁社会の現れと言われています。
バブル崩壊以降のこの20年間、日本人の多くはどこか「自分」というものを見失っていたのではないでしょうか。物質的にはある程度満たされたものの、そこから自分が何をしたらいいのか分からなくなってしまい、生きることそのものを空虚に感じてしまう。自分というものの存在に意義を見出せなければ、他人との関係性をうまく作ることはできません。こうしたことも、今日の『無縁社会』の大きな要因のひとつだと思います。
今、日本は東日本大震災で大変な状況下にありますが、このたびの震災で人間同士の結びつきや縁(繋がり)の大切さが見直されています。
人と人との豊かな人間関係は人生の宝です。震災からの復興と同時に、人間同士の繋がりの復興もしていきたいものです。
2011.4.8
第38話 赤間 泰然 Taizen Akama
駅前の風景
先日、昼前に新橋駅前をぶらりと歩きました。大震災直後には交通機関が止まり、食料や電池の買い占めなどの混乱がありましたが、都心はだいぶ落ち着きを取り戻した様子でした。
そんな折、SL広場では、被災地出身の大学生たちが大きな声で募金を呼びかけていました。無関心に歩く人々、人ごみに紛れて彼らは取り残されたかのようにたたずんでいました。その様子を見た時に、ふと、被災地から離れた場所で生活をしている人々の心の中では、段々とこの大震災の記憶が薄れ“過去のもの”になっているのではないかという疑問が起こりました。
被災地から離れている人は、震災の様子をテレビで見ながら他人事になっているのではないか、自分もそうなのではないかと不安な心持ちになったのです。
しかし、夕方になると仕事帰りの方、ネクタイ姿の多くの人が集まり募金を呼びかけていました。また、被災地出身の方でしょうか、お金を入れ、お互いに声を掛け合い励ましあっている姿を見て、昼間の不安が拭い去られるような思いがしました。
私は天災などの様々な困難に直面した時に、お互いに支え合い、乗り越える経験を共に分かちあった人の絆は、強いものだと信じています。
私に協力できることは僅かかもしれませんが、出来ることから少しずつ、この絆の輪に加わっていきたいと改めて考えさせられた休日でした。
2011.3.29
第37話 輝元 泰文 Taibun Terumoto
今・ここで被災地と共に
この度の大地震と津波で被災された方々、原子力発電所の事故で避難を余儀なくされている方々に、心からのお見舞いを申し上げます。また、今回の災害でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈り申し上げます。
地震があったあの日、東京にいた私たちもこれまでにない激震を経験しました。あの日以来続く余震や停電などによって、私たちは不安の闇の中へ突き落とされてしまったかのようでした。しかし、テレビや新聞などで今回の災害の凄まじさを眼にする一方で、その中でも懸命に生きている被災者の方々の姿に勇気付けられてきました。
「自分に何かできることはないか。」
多くの方々がそう思っていらっしゃることと思います。私たち自身も、どれだけ考えたことでしょう。
「しかし、一体自分に何ができるのか。」
一方で、私はそのような無力感にさいなまれてもきました。
そんなとき、ふと、私が修行していたときにお世話になった老師の言葉がよみがえってきました。
「迷ったときには、必ず今・ここという場所に帰ってくることだ。」
今・ここで、自分に何ができるのか。今・ここで私たちができることを考えることが、不安や無力感を乗り越えることにつながるように思えるのです。
無駄な電気を消す。水を節約する。買占めをしない。夜更しをしない。ちょっと辛くても我慢する。被災地に向けて祈る。………
本当に小さなことですが、私たちが今・ここでできることを通して、被災者の方々と共に歩んでいけたらと思います。
輝元泰文 合掌
2011.3.11
第36話 鷲山 晃道 Kodo Washiyama
典座(てんぞ)の心得
私は四国の愛媛県にある曹洞宗の修行道場「瑞応寺(ずいおうじ)」で三年間、お世話になりました。その中で一番思い出深いのが、修行僧の料理を作った典座寮(てんぞりょう)です。修行道場に入ったばかりの私は、料理長を務める典座和尚(てんぞおしょう)の付き人に任命され、そのそばで『典座としての心得』を教えていただきました。
瑞応寺では毎年夏の終わり頃になると、お施主さんにたくさんのジャガイモをいただきます。それは軽トラックで何度も運び込まれ、倉庫やその外もジャガイモの入ったカゴでいっぱいになります。私たちはそのジャガイモが悪くならないように早く調理しようと、朝昼夜と一生懸命使っていました。おかずやお味噌汁、時には混ぜご飯にも使っていました。
そんなある日、私はそのジャガイモを一生懸命に刻んでいました。たくさんのジャガイモを同じ短冊切りで切っていた時のことです。やっと切り終えた頃に典座和尚が怒った顔で近づいてきてこう言います。
「晃道さん、こんなにたくさんのジャガイモをどうするつもりだ!」
私が
「これは小皿に、これは中皿に、そしてこれは味噌汁に入れようと思います。」
と答えると典座和尚は、
「そんなのはダメだ。小皿には小皿の、中皿には中皿の、そして味噌汁には味噌汁の切り方をしなきゃならん!」
と叱られてしまいました。
よく精進料理というのは、肉、魚を使わないのがそうだと思っている方が多いと思います。確かにそれも一つです。しかし、精進料理とはその食材の命を生かし切り、食べる方々の事を考えて一生懸命作る料理のことだと思うのです。精進料理とは、典座和尚に真心を込めて、精進して作る料理の事だと教えてもらいました。その時の私はただ、ジャガイモを「処理」することばかり考え、その「命を生かしきる」ことを忘れていました。
修行道場を去った今も、私にはこの教えが一番印象に残っています。今回、東京禅僧茶房で「食」に関する展示を行わせていただきました。この命を生かしきる食事を毎日心掛ける大切さが一人でも多くの皆さまに伝わっていることを願っております。
2011.2.15
第35話 水谷 幸寛 Kokan Mizutani
ポイ捨て
先日、夜道を歩いていると30代くらいの男性が煙草をくわえながら私の前を歩いていました。「歩き煙草は良くないなぁ」と思ったその時、火のついたままの煙草を路上にポイッと捨てて、一切消さずにそのままスタスタと歩いていってしまいました。
私はすぐにその煙草を消し、吸殻を持って帰宅しました。
この時期は街路樹の葉っぱもたくさん落ちており、なおかつ空気が乾燥しているので落ち葉はすぐに火がつき、たちどころに燃え広がる恐れがあります。
もし、火のついたままの煙草が路上の隅に溜まっている落ち葉に引火し、まわりの木や建物に燃え移ったら・・・・・と、考えるだけでゾッとします。
その時、捨てた人を呼び止めて注意できなかった小心者の自分に、ちょっとガックリしてしまった夜でした。
2011.1.18
第34話 鷲山 晃道 Kodo Washiyama
忠犬チョコ
生まれ育ったお寺に戻ると、写真に出ているチョコという名の犬がちぎれるぐらいにしっぽを振り、全力で私を出迎えてくれます。
私は上京して3年目になりますが、東京に出る前、この犬と朝夕に散歩に行くのが日課でした。ある時、車で帰った際に、ちょうど夕方の散歩の時間だったので、そのままいつものように出かけました。
数日後、いざ買い物に出かけようとすると、車の鍵がありません。私はどこにやったのか分からず、ずっと探しました。しかし鍵は一向に見つかりません。仕方がないのでスペアーの鍵でしばらく運転していました。
そして鍵が見つからないまま、東京に出て半年以上たったある日のこと、急に母親から電話がありました。普段はあまり連絡がないので、何かあったのかと思い、電話に出ると「チョコが散歩中に車の鍵を雪の中から見つけた」ということでした。なんと車の鍵は側溝の溝に落ちていたらしく、さらに雪が積もっているところから探し当てたそうです。私のにおいを覚えていて見つけてくれたのかもしれません。私は鍵を失くしたことをすっかり忘れていたので、うれしいやらありがたいやら…何とも表現しようもない気持ちになりました。
ペットというのは見返りを求めず、忠誠心を示します。だからこそ、今回のような出来事があったのかもしれません。
チョコに特別なにかしてあげることはないですが、また田舎に戻ったらいつものように一緒に散歩へ行こうかと思います。
2010.12.21
第33話 長岡俊成 Syunzei Nagaoka
響きあう世界
年の瀬を迎え、今年もそろそろ終わろうとしています。
年のはじめ、多くの人々が“世界が平安であれ”と祈ったにも関わらず、今振り返ってみると、依然として国と国との衝突が絶えない一年だったように思います。いつの世も争いが絶えないことに、嘆息し立ちすくんでしまっていた私がいました。
日本と周辺諸国との関係もまた、順調とは言えませんでした。時には、インターネット上で、口汚い罵りあいが繰り広げられたりもしました。
しかしそんな中、上海万博の会場で、シンガーソングライターである植村花菜さんが、「トイレの神様」という歌を現地の人々の前で披露している映像を目にしました。そこには、おばあちゃんの愛情への感謝を歌ったその曲に感動し、涙する人々がいました。個人と個人が向き合い、普遍的な感情が共鳴したとき、そこにはもはや国境はありません。
日本と周辺諸国との関係のように、私たちは所属する集団(家族、企業、自治体、国家など…)同士で対立することがあります。その対立に拍車をかけるのが、善⇔悪、正⇔邪、好⇔嫌、勝⇔負といった二項対立の構図です。
個人と個人が向き合い、対話や実体験を通して響きあう世界。二項対立の単純な構図を乗り越え、折衷点を探り、問題解決を図る動きに満ちた世界。そんな世界を実現するため、祈ることに加え、仏教者として自分にできることを考え、実践していこう…。今、私はそう思っています。
2010.12.10
第32話 爾見淳芳 Junpo Shikami
人間っていいな
つい最近の話なのですが、朝八時ぐらいに若い夫婦がお寺を訪ねてきました。頭は金髪、両耳にはピアス、年齢は私と同じ位の男性が「住職さんいます?」と聞いてきました。私がすぐに住職を呼んでくると、住職は親しげに男性と話をし始めました。何でもその方は、高校生のときに両親を亡くしてしまい、就職するまで毎日のようにお寺に来て、住職と私の母と一緒にご飯を食べていたそうです。
私は中学から寮にいたため、住職と母が彼と家族のように接していたことを、全く知りませんでした。
私が今年の始めに母が他界したことを彼に告げると、彼は「ぜひお墓に線香をあげさせてください。家族が出来たことを報告させてください。」と言いました。彼は、いつか住職と母に会いに行こうと思い続けていてくれていたそうです。
母のお墓の前で手を合わせる彼と奥様の二人の姿の中に、母の面影を見た気がしました。
母が残してくれた、人と人のつながりの温かさ。やっぱり「人間っていいな」。
2010.12.2
第31話 三宅大哲 Daitetsu Miyake
道祖神(どうそじん)
渋谷のとある一角。
いつもは何気なく通り過ぎていた道なのですが、ふと目を落とすと…
こんなところに…!と思うような場所に写真の道祖神がありました。
道祖神は、主に村や集落の入り口などに建てられますが、ビルに囲まれた繁華街の中だと、ひときわ存在感があります。
渋谷といえば、今は若者が集う街として賑わっていますが、明治初期頃までは、中心を流れる渋谷川の水がきれいで沿岸では蛍が見られたそうです。かつて徳川将軍に献上された蛍もここで採取されたとか。
元来、道祖神は村や集落に悪霊や厄災が入るのを塞ぐ役目があり、同時に路を守り、旅人の安全を守る神でもあります。この道祖神がいつの時代に造られたのかは分かりませんが、時代が変化してもその様相を変えることなく、人々を見守り続けてきたのでしょう。私は、その微笑ましい姿にとても心が癒されました。
石仏を通してその土地に想いを寄せるというのも良いものです。街を眺めると忙しなく歩いている人が多いようですが、たまに足を止めてみると何か新しい発見があるかもしれません。