禅僧小噺
2010.11.26
第30話 守長修浩 Shuco Morinaga
お寺とおじいさんと貸したお金と
先日、私がいるお寺に一人のおじいさんがやってきました。身なりは普通のおじいさんですが、なぜだかモジモジと玄関に立っています。
聞けば、仕事を失い寮から出され、車中生活を余儀なくされているようです。そして、ガソリンが無くなりそうで、なんとかお金を貸してくれないかとの事です。
人からは、「貸しても返ってこないからお金は貸すな」と言われます。しかし、私は、お寺に来て救いを求めている人をないがしろには出来ず、少しでも助けになればという気持ちでガソリン代におにぎりとお茶を渡しました。
おじいさんは「ありがとうございます。ありがとうございます。」と恐縮しきりの様子でペコペコと頭を下げ、お寺を後にしていきました。
しかし、おじいさんが去った後、そんな感謝の言葉とは裏腹に私の対応は正しかったのかと自問自答をする自分が現れました。「これはおじいさんの根本的解決には全くなっていない。生活保護手続きの手伝いなど他の救済方法はなかったのか。」しばらく私は玄関で一人茫然としてしまいました・・。
あれから数カ月。色々と自分なりに答えを探しました。
もしもまた、おじいさんと同じような方がお寺にいらしたら、きちんと話を聞いて、その方にあった救いのお手伝いをしようと思っています。
2010.11.16
第29話 輝元泰文 Taibun Terumoto
経験
私には、座右の銘としてきた次のような言葉があります。
「経験は最良の師である」
Usus magister optimus est
この言葉はラテン語の格言で、作者は知られていません。大学1年生のとき、先生がたまたま黒板に書いて紹介してくれたこの言葉に感動し、以来ずっと胸に秘め続けてきました。
ここでいう「経験(Usus)」という言葉には、「練習」という意味もあり、「実践」という意味もあります。当時私は大学のオーケストラでトロンボーンを吹いていたので、「経験」を楽器の練習にあてはめ、「練習すること自体からたくさんの学びがある」と自分の実感をこめて納得しました。
禅僧は、昔からより良い師を求めて諸国の道場を訪ね歩いたといいます。道元禅師も、より良い師を求めて中国に渡りました。私もまた、僧侶のみならずたくさんの方々から教えを受けています。法話や坐禅指導などで先輩・同僚からアドバイスをいただく機会も多くなりました。多くの方々と出会い、教えを受けること自体が、私にとってはかけがえのない経験であり、最良の師であります。
2010.11.9
第28話 寺門典宏 Tenko Terakado
浅草寺で坐禅
先日、私はあるボランティアをしていることをきっかけに、浅草寺で坐禅を指導する機会に恵まれました。
「浅草寺で坐禅?」と思われる方も多いのではないでしょうか。
浅草寺は聖観音宗(しょうかんのんしゅう)の総本山であり、1950年に天台宗から独立して現在に至っています。
坐禅は一部の宗派だけと思いがちですが、天台宗でも止観(しかん)という方法により坐禅を行じています。止観の「止」は心の動きを抑え、「観」は心の動きを観察することです。
天台宗の坐禅は曹洞宗の坐禅と異なりますが、初めて参禅される20人の御年配の方々に指導をさせていただきました。
今回、坐禅をする会場として使用した伝法院(でんぼういん)は、仲見世の喧騒が嘘のような静けさで京都の庭園のような趣きがあります。
この日は、小雨まじりでとても寒く、40分間という坐禅の時間が「長くつらいかもしれないな」と思っていましたが、それぞれ思い思いに坐られていたようで何よりでした。
参禅者の方にアンケートをしたところ概ね好評で、「また坐ってみたい」との声もあり、少しホッとしたと同時に、まだまだ多くの方に坐禅を普く広く勧めることができることを実感しました。
日頃、伝法院は修行の場であり、お茶会等限られた人しか立入れないこともあって、非常に貴重な体験となりました。合掌
2010.10.26
第27話 澤城邦生 Hosho Sawaki
深山幽谷
先日、福井県にある大本山永平寺に行ってきました。
東京から東海道新幹線・北陸本線を乗り継いで、約4時間の行程です。四方を深い山に囲まれ、街の喧騒から離れた場所で1週間、坐禅・講義三昧の毎日。ここは、私達曹洞宗僧侶の修行道場。世間と隔絶した世界では、日々、修行僧が規律にのっとった生活を送っています。我を捨て、規則を守り、厳格な上下関係の中で集団生活を営んでいる彼らの背中。そこからは、一心に仏道修行に身を投じている者が持つ清純さを感じることができます。
私が修行道場を離れ、布教の道を志して早10ヶ月になりますが、「凛」とした空気が張り詰めている永平寺に来ると、自然と背筋がピンとなります。世間の価値観とは離れた世界の中で、修行僧達は一体何を得て山を降りるのでしょうか?
深山幽谷に佇む永平寺は、年間を通して参拝する事ができます。そこでは四季の移ろいを身をもって感じられ、独特の世界観にひたることができます。福井県に行かれた際には是非、立ち寄ってみてください。
2010.10.8
第26話 羽賀孝行 Koukou Haga
私の願い事
先日、友人から誕生日のお祝いにと某神社の絵馬をいただきました。
絵馬は自分のお願い事などを書いて神社仏閣に奉納するものです。せっかくいただいたので私も何か書こうかなと思い、もやもやと考えていると、ある日の母の言葉を思い出しました。
私がまだ小さかった頃、近所の神社にお参りに行ったときに母は私にこう言いました。
「お願い事をする前にまず神様にお礼を言いなさい。」
それまでは鐘を鳴らしてさい銭を放り込めば真っ先に自分の願い事をしていました。私にとっておさい銭は、神仏に願い事を叶えてもらうための代金みたいなものだったのかもしれません。「出すもの出したんだから願いを叶えてもらって当たり前でしょ」。そんな風に考えていたのでしょう。しかし母は、これまで無事に生きてこられたことを神様に感謝するようにと、私に教えてくれました。
そんなことを思い返しながら筆をとると、自然と願い事がこぼれてきました。これまでも、そしてこれからも大切にしていきたい私の願い事です。
「今までお守りいただきありがとうございました。今後も自分の志すところに向かって努力していきたいと思います。
どうぞこれからも、そっと見守っていて下さい 羽賀孝行 合掌」
2010.8.31
第25話 三宅大哲 Daitetsu Miyake
蝉の合唱団
ある夜、気分転換をしようと思い、ふらっと散歩に出かけました。散歩中、普段あまり気に留めないのですが、蝉の鳴き声が聞こえたので近所の公園に向かいました。
着くとその公園の中だけ蝉が鳴いていて、数十匹はいるのではないかという大合唱。
昼間の暑い時間に聞く蝉の鳴き声は暑さを増幅させますが、夜、公園のベンチに座りながら聴く蝉の声は普段と違った雰囲気が味わえます。
それはまるで蝉の合唱団。途中しばしの休憩が入り、後半はコオロギも加わってしっとりとした歌を披露してくれました。
何かに行き詰ったりイライラしたりした時に、私はたまに散歩に出かけます。何も考えず外の空気を吸い、自然を感じるというのもなかなか良いものです。モヤモヤした気持ちをリセットさせてくれますし、何か新たな発見があるかもしれません。慌ただしい世の中ですが、たまには立ち止まり、ホッと一息ついてみるのもいいですよ。
2010.8.24
第24話 羽賀孝行 Koko Haga
友よ
先日、名古屋で私の大学時代の友人たちと会ってきました。私が出家して以来、約4年半ぶりの再会でしたが、以前と変わらぬやりとりを心底有り難いと感じました。
出家する時には、もう二度と家族や友人たちと会えないかもしれないと覚悟していましたし、実際、修行道場に居た4年の間に縁の途絶えた友人もたくさんいます。志あって進んだ道とは言え、ふと失ったものを両手の指で数えては悲しくなることもあります。
だからこそ、名古屋の友人たちが昔と変わらず私を迎えてくれたことを、有り難いと感じたのです。
東京に帰る電車の中、感謝の念で心がいっぱいになりました。
『有り難う、いつもいてくれて』
こんな台詞、面と向かっては到底言えませんが、そっと胸に秘めて毎日を過ごしていけたらと思います。
2010.7.30
第23話 輝元泰文 Taibun Terumoto
スイッチを入れる前に
私の家には、テレビがありません。居間にあるのはラジオだけです。
かつてはよくテレビを見ていて、だらだらと何時間も見てしまうこともありましたが、1年間テレビのない修行道場での生活を経験して、それほど必要を感じなくなりました。ニュースや天気を知る必要があるときは、インターネットなどでも見られるので、ラジオだけでもあまり不自由を感じることはありません。
そういう生活をしながら、最近、「本当に必要としている情報なんて、実はそんなにたくさんあるわけじゃないんだ」ということを感じるようになりました。ほとんどの情報は、テレビやラジオが一方的に流しているだけで、私たちが必要としていないものもたくさん含まれています。むしろ、私は自分の心をテレビやラジオにまかせ、目や耳から何でも心に入り込んでくることを許してしまっていたのでは、と思うようになりました。
私たちは、本当に必要なものだとわかっていれば、自分でとりにいくことができます。テレビやラジオ、インターネットを使うときには、スイッチを入れる前に一度立ち止まって、今、何の情報を必要としているのか、自分の心に確かめてみるとよいかもしれませんね。
2010.7.21
第22話 守長修浩 Shuco Morinaga
横断歩道と赤信号
赤信号の横断歩道の前に立つと、私達は悩みます。
それも4,5メートルくらいの長さの横断歩道で、更に車の行き来もない夜だったりすると。
そう、渡ろうか渡るまいかを悩むのです。
しかし、悩んではいけないのです。答えは「渡らない」それだけです。
それがいわずもがなのルールだから。
さらに言うならば、後ろから・近くにあるマンションの一室から・向かいのコンビニエンスストアから。あらゆる所から子供が大人を見ているからです。
子供は大人のマネをして育っていきます。
安全だから、急いでいるから、色んな事情があるのでしょう。
でも、その気持ちをグッと呑みこんで、子供のためにも、未来のためにも、星空でも見上げながらゆったりと赤信号を待ってみてはいかがでしょうか。
2010.7.9
第21話 寺門典宏 Tenko Terakado
気脈
「気脈」とは、ひと筆ひと筆、筆順を意識しながら流れるように書かれた線のことです。
上の写真のように「少欲知足」と行書で書かれた文字の筆順は、はっきりと分かります。
私の書道の先生の師匠は桑原(くわはら)翠邦(すいほう)先生といいます。桑原先生は、筆順を書の特殊性と捉え「流れた運びが純粋でなかったということは、そのときの、その人の心の状態が天地間のリズムに対して、一枚になり得ないものがあったということに外ならない。」とおっしゃっています。筆順を強調することで楷書体には見ることができない躍動感が表れているのです。
僧侶たる者、少しでも奇麗に書きたいという気持ちで始めた書道。人の心が通っているからこそ、生き生きとした文字となることを教えてくれた書道に出会えたご縁は大切にしたいものです。
書道も仏道も同じ「道」がつきます。私はどちらの「道」もおろそかにせず、邁進したいと思います。
2010.6.29
第20話 福田智彰 Chisho Fukuda
雨
最近雨の日が多くなり、少しずつジメジメとした湿気を感じるようになりました。洗濯物が干せない、傘をさして移動しなきゃいけない、服が濡れるなどの理由から、雨の日を嫌う方は結構多いのではないでしょうか。しかし私にとって、雨の日は少しだけ「楽」を感じる日なのです。
なぜなら、それは私が極度の花粉症だからです。花粉症とは13歳の頃からの付き合いで、春から梅雨の時期にかけてずっと症状が続きます。しかし、雨の日だけは花粉が少なくなっているせいか、症状が和らぐため、呼吸が少し楽に感じられます。特に梅雨の時期になると、そろそろ花粉症ともお別れになるので嬉しく感じます。
同じ雨の日でも視点が変われば、受け取り方も変わります。これから夏になりますが、蒸し暑いと不満に思うのではく、夏にしか味わえない良さを楽しみたいと思います。
2010.6.23
第19話 佐藤 無憂 Muyu Sato
只管打坐
写真のカエルさん…。少々猫背気味ではありますが、どっかりと地面に腰を下ろして「只管打坐/しかんたざ」(余念を交えずにただひたすら坐ること)をしております。ちなみに、このカエルさんはフランスの禅道場の一つ『禅道尼苑/ぜんどうにえん』の在住者で、日光浴が好きなフランス国民らしく、太陽をいっぱいに浴びながら坐り続けています。
雨が降ろうが風が吹こうが、一向におかまいなし。ある参禅者曰く「禅は人生の学校なのだ」と。…なるほど、我々を取り巻く日常生活は、日々変化を遂げておりますが、そうした環境の変化に影響されずに「ぶれない生き方」をすることは容易ではありません。しかし、たとえ自分の中の振り子が時に右や左に大きく揺れることがあっても、自然の流れに身を任せておけば、ぶれは徐々に小さくなっていくものでしょう。
「近頃、なんだかお疲れ…」と感じる事があったら、このカエルさんを思い出すと、何か気づくことがあるかもしれませんね。(自分にカエル、自然にカエル…。)
2010.6.15
第18話 澤城邦生 hosho sawaki
炭
先日、実家で焚き火をしました。燃えやすいものから重ねていくわけですが、最初に紙、木の葉、木などの順にいれていきます。しかし紙に火をつけても、木に燃え移らないと燃焼が安定しません。木が炭のような状態になることによって順調に燃えるわけです。
炭は一見すると火が付いているのかどうかわかりませんが、しかし、内側は燃えているのです。そして、紙や葉が勢いよく燃え上がりすぐに燃え尽きてしまうのに比べ、炭は派手ではないですが、風に吹かれても消えず長い間燃えています。
炭って、すごいなと感心しました。
その時、人の心と重ね合わせてしまったのです。
我々は生きていく中で、周囲の批判にさらされ、逆風の中を独り歩かなければならない時もあります。他人からの影響に晒されて、自分が分からなくなる時、自分が否定されてしまう時…
そんな時、炭というのは非常に力強く感じます。派手な炎はあげないが、多少の風にも負けずじっくり、そして着実に内に「火」を秘め続けている。人生における逆風の中でも「自分」という「火」を、炭のように宿し続けていければいいな、と炭の火に自分を重ね合わせました。
2010.6.10
第17話 阿部 宗道 Shudo Abe
共通体験
人と人とが親しくなる時、「共通体験」は重要な意味を持ちます。学生時代のサークルや同好会などで同じ時を共有した仲間は、生涯の友になることもあるでしょう。
我々shojin-projectのメンバーは、都内の老人福祉施設へ訪問をさせて頂いております。その際に、入所者の方と一緒にみんなが知っている歌を歌います。また、ドラマ『水戸黄門』の話題で盛り上がったこともありました。共通する体験を持つことは、年齢など関係なく人間同士の距離を縮めてくれます。
近年インターネット上ではmixiやTwitter等、様々な社会が形成されています。相手の顔が見えないという批判もあるでしょう。しかしモニターの向こう側に居るのはれっきとした生身の人間なのです。その点では今までと何ら変わりません。インターネットの進化によって「共通体験」の場は確実に増えました。だからこそ私は、インターネットという場を大事にしていきたいと思うのです。
2010.5.25
第16話 赤間 泰然 Taizen Akama

ゴールデンウィーク
ゴールデンウィークにフランス旅行に行き、モン・サンミシェルをはじめ、多くの教会を訪れました。
大理石造りの壮大な教会の中で静かに頭を垂れて祈りを捧げる人、壮麗なステンドグラス、柔らかな日の光に輝くキリスト像の美しさに私は畏敬の念を感じました。
一部観光地となった所もありましたが、町のいたるところにある小さな教会の中にも、同様の風景を目にします。
私は仏教徒ですが、地元の人々が祈りを捧げる姿は、宗教を超えて感動と自身の信仰を新たにする、襟を正すような思いを与えてくれます。
僧侶として御仏(みほとけ)の教えやご縁のある方との触れ合う中で、私自身がフランスで出会った人々の様に、真摯に向き合って生きていきたい。そう決意を新たにさせてくれた休日でした。
2010.5.13
第15話 鷲山 晃道 Kodo Washiyama

脚下照顧(きゃっかしょうこ)
私が修行した愛媛県新居浜市にあります瑞應寺の隣には、幼稚園がありました。そこの園児たちはお寺に上がる際、靴をきれいにそろえて上がります。すべての園児がそうなので、その靴の並んでいる様子を、観光で来られた外国人の方が笑顔で何枚も写真に撮っていました。私もいつも「見事だなあ」と感心していました。
それは幼稚園の先生方の指導の賜物だと思います。「靴をそろえる」たったそれだけの事のように思われるかもしれませんが、実はすごく大事なことです。
お寺の玄関によく「脚下照顧」という字が書かれた板が置いてあります。この意味は「足元を見よ」という意味ですが、さらに言えば「今の自分はこれでいいのか?」という意味にもなります。
先のことを考えると、不安になってしまう今の社会ですが、だからこそ自分の足元から見直す、今を見つめることが大切だと思うのです。今の一つ一つの積み重ねが未来に繋がるのですから。
まずは、足元の靴をそろえることからはじめませんか?
第14話 水谷 幸寛 Kokan Mizutani

協調
私はドラマの「のだめカンタービレ」を観て魅了され、最近では、寝る前にクラシック音楽を聴いています。
オーケストラを改めてじっくり聴いてみると、バイオリン、コントラバス、チェロ、フルート、ピッコロなど、実に多種多彩な音が奏でられていることに気づきました。どの楽器も魅力のある独自性を持っています。しかし、個々の音程・テンポ・リズムなどが協調することによって、壮大なひとつの音楽となっていることに、とても魅力を感じています。
そこで、ふと感じたことがあります。
私たち人間は、自分とは違う個性を持った人間と接しながら生活しています。
多彩な楽器が集まってオーケストラが出来上がるように、私たち人間も個々に備わっている魅力に互いに気づき、協調していくことができれば、今以上に人間同士の絆が深まるのではないでしょうか。
皆さんにもクラシック音楽を聴いて、魅力を感じて頂けたらうれしいです。
禅僧小噺
2010.4.14
第13話 長岡 俊成 Shunzei Nagaoka

心を尽くす
先日、あるお寺のお茶会に参加しました。木漏れ日がやわらかく差し込む、閑静な茶室。洗練された所作で点(た)てられた一碗の茶。せわしない日常を離れ、贅沢なひとときを過ごさせていただきました。不思議なのは、その情景の記憶が今も鮮やかであることです。
茶道には大変細かな所作があり、もてなす側も、もてなされる側も、それにしたがってその一瞬一瞬に向き合います。私の記憶が鮮やかなのは、私自身、自然とそうさせられていたからかもしれません。
昨今、日本では「合理性」や「スピード」を重視するライフスタイルに疑問を抱く人が増え、「合理性を過度に追求せず」、かつ「その過程を大切にする」ライフスタイルが見直されてきています。
私もまた、日常における一つ一つの所作や言葉に、また、「駒沢坐禅教室」などの行事においても、心を尽くしていきたいと思った春の日の出来事でした。
2010.3.23
第12話 横山 俊顕 Shunken Yokoyama

出世
「あいつは出世した」とか「出世街道」とは、良く耳にする言葉ですが、実はこの「出世」という言葉は仏教の故事から生まれた言葉だといわれています。
今では「役職が上がる」や「お金持ちになる」という意味で使われていますが、元々の出世の意味は「お釈迦様がこの世に生まれたこと」「俗世間を離れた仏の道」というものでした。それが次第に、「僧侶としての位が上がること」という意味に転じて、現在のように用いられるようになりました。しかしながら、一昔前を振り返ってみると、僧侶としての位が上がるためには、人々の悩みに耳を傾け、救いの手を差し伸べ、その人の人徳や行いが周囲から認められなければなりませんでした。「世のため人のために尽くす」ことで、はじめて出世をすることができたのです。
今の時代はといえば、「人を蹴落としてでも自分だけが出世してやろう」という、出世願望が渦巻く競争社会。そんな時代だからこそ、「出世」の原点である、「世のため人のために尽くす」ということが大切になるのだと思います。
「出世」という言葉の意味をもう一度考え直してみれば、同僚や部下への思いやりという、上司として大切な条件が自ずと見えてきます。
昔の言葉のルーツを探ると、こんな発見があるから楽しいものです。
2010.3.5
第11話 佐藤 無憂 Muyu Sato

ノロ効果
私事で恐縮ですが、最近、生まれて初めて「ノロウィルス」による食中毒というものにかかりました。たまたま免疫力も低下していたのか、その症状ときたら今までに経験した事のないような強烈なもので、歩く事もままならない日が何日も続きました。
そんな中、普段何気なく使っているイスがどんなに体を楽にしてくれたことか、体を温めて毒素を流してくれるお湯がどんなに症状を和らげてくれたことか…。人に支えられている事は容易に感じる事ができるものの、普段何気なく使っている物などに対しては、なかなか実感として「支えられている事」を意識していないものだと思いました。ノロウィルスによって、そんな大切な気づきを与えられたことを思うと、本当に何事からも学ぶ事多しです。(…とはいえ、ノロさんにはもう懲り懲りですけれど。)合掌。
2010.2.25
第10話 高橋 正英 Shoei Takahashi
地に足のついた暮らしへ
立春が過ぎ雨水となりました。今の時期は、旧暦で申しますと「土脉潤起(つちのしょう うるおい おこる)」。雪から雨に変わり、大地が潤い、春一番が吹く季節とされています。
もちろん、昔と今とでは気候が少し異なりますし、年によっても異なりますから、旧暦の指す言葉がそのまま正確に表しているとは言えません。しかし、それでも、都市化している生活サイクルで自然とともに生きていることを、ともすれば忘れがちでありますから、こうした旧暦が教えてくれる季節感は、私たちに地に足のついた心のやすらぎをもたらしてくれます。
80年代、バブル景気を謳歌した日本経済は90年代はじめに崩壊しました。その当時の雰囲気を引きずった90年代が終わって世紀も改まり、2000年代にはある種の虚無、空漠感が漂い、何を言っても何をやっても結末が見えているような雰囲気があったように思います。
この10年間で、日本がたどった道のりのなかで、一つの方向性が見えてきたとすれば、それは、冒頭に申しましたような「地に足のついた」暮らしを求めはじめていることではないでしょうか。
この「地に足のついた感覚」をなかなか実感することの難しい現代において、私を見つめ、私自身にかえろうとする生活態度は、日本文化の骨頂である禅文化への再注目、回帰につながっているのでしょう。
2010.2.9
第9話 阿部 宗道 Shudo Abe
リクライニング
先日、数年ぶりに夜行高速バスに乗る機会がありました。乗ったことがない方はご存知ないかもしれませんが、夜行バスのリクライニングはかなりの角度まで倒れるようになっており、ゆっくり寝て行けるようになっています。そのため乗務員さんも「消灯になりましたら、後ろの方に一声かけて、リクライニングを十分に倒してお休みください」と言ってくれているのですが・・・。実際は後ろの人に声をかけずに、中途半端に半分くらい倒す人が多いようです。自分から声をかけれず、どこか遠慮してしまう・・・。非常に日本人的と言うのでしょうか。しかし10時間にも及ぶ長い旅路です。後ろの人に遠慮するくらいなら一声かけてしっかり横になってゆっくり休む方が良いに決まっているのですが・・・。
一方、新幹線など電車のリクライニングでは飲み物を置いている状態で前の方に突然倒されて危険なこともあります。どちらの場合でも、後ろの方に一声掛けることが大事です。
バスや電車で知らない他人同士が同乗することだって一種のご縁なのです。どうせなら無駄に疲れる事なく、気持ちの良い旅をしたいものですよね。
2010.2.2
第8話 赤間 泰然 Taizen Akama
里帰り
年が明けてお寺の仕事が一段落をするのを待ち、私は自分の生まれ育った町を訪れました。友達と日が暮れるまで夢中になって、ザリガニ釣りや探検をして遊んだ森林公園や、卒業した小学校。悪ふざけをしてお店の小母さんに叱られた駄菓子屋さんなど、子供の頃の楽しかった思い出の場所やお世話になった方を訪ねてゆっくりとすることが出来ました。
私がこの町を離れて約十年。久しぶりに訪れた故郷(ふるさと)は、何も変わらずに私を受け入れてくれる懐かしい場所でありました。又、子供のころから比べて、少しずつ変わっている町の姿に、私は故郷から離れた歳月と一抹の淋しさを感じました。この、過ぎた時間を振り返った時、その時々の人の出会いの大切さを実感させられました。
川の流れの様に戻ることのない時の中で、「一期一会」の人生を大切に生きていこうと感じた里帰りでありました。
2010.1.14
第7話 守長 修浩 Shuco Morinaga

立ち居振る舞い
先日、歌舞伎を観に半蔵門の国立劇場へ行って参りました。私事ではありますが、歌舞伎の鑑賞は私の趣味の一つでもあります。
私にとって、歌舞伎の醍醐味は、会場独特な晴れやかな雰囲気を楽しめる事、現代の演劇ではあまりお目にかかれない日本独特の「恥」や「道」の文化を垣間見ることが出来る事。そして、何よりも歌舞伎を演じる役者達の美しい立ち居振る舞いを間近に見る事が出来るからと言えます。
その役者たちの堂々とした歩き方や姿勢の良さは、同じく立ち居振る舞いを大切に考える僧侶にも共通するところが多くあり、いつも非常に良い影響をもらえます。
翻って、僧侶である私と接した人が、思わず居住まいを正したくなるようにならなくては、と身の引き締まる思いにもなりました。皆さんは日常の立ち居振る舞い、きちんと整えていますか?
2009.12.21
第6話 福田 智彰 Chisho Fukuda

イマジネーション
毎日使っている通勤電車。先日、私が東京に移ってきて初めて遅れました。約20分の遅延でした。以前、日本人が電車の遅延で我慢できる時間は、5分以内だと聞いたことがあります。毎日同じように、時間通り電車が来ることが当たり前になっている。そんな中、特に急いでいる時、電車が遅れるということは、イラっとくることかもしれません。しかし私には電車が毎日時間通り来ていることのほうが奇跡のように思えて仕方ありません。
それは、「私がその仕事をしていたら・・・」、とイメージするからです。電車の運転は簡単に見えますが、実はブレーキ一つとってもかなり難しいのです。「電車でGO」というゲームをしたことがある人は想像しやすいかと思いますが、第一に苦戦するのがブレーキです。電車の車輪は、「ゴムのタイヤに路面がアスファルト」といった自動車とは違い、「鉄の車輪で鉄の上」という摩擦の少ない場所を走っています。そのため、ブレーキを強くかけることができず、自動車では数十メートルで停止できるところを、数百メートルかけて停まります。そして乗車位置が定まっているため、かなり正確な停車位置に停めなければなりません。それには、かなりの技術と経験が必要となります。ブレーキのみならず、安全確認等、様々な作業をこなしながら、一駅一駅失敗は許されない。失敗は即ち、「遅延」となるからです。
ここまで考えるだけでも、時間通り電車が来ることは、私は当たり前のことだと思えません。更に電車が走るためには、運転手だけでは足りません。整備も必要ですし、レールの点検も必要です。電気がなければ動かないし、そのための電線がなければ動きません。そしてそこには必ず、それを仕事とする人がいます。その仕事をイメージする度に、それがどれだけ「有難い」ことなのか感じずにはいられません。
2009.12.11
第5話 佐藤 無憂 Muyu Sato

一日一笑
昔から、『笑う門には福来る』と言うように、「笑い」にはたくさんの効用があるようです。笑うことにより副交感神経が活発になると、リラックスした状態をもたらし、消化器官の活動にも良い影響を及ぼします。又、血液中の細胞も活性化し、自然治癒力が高まる他、意識を外の世界に向けられるというような、メンタル面でのメリットもあります。つくり笑いでも効果があるそうですが、大笑いをすれば自然に腹式呼吸となりますし、体の様々な部分の筋肉も使うことになります。このように、「笑い」は心のみならず、体の健康にも役立っているのですね。
先日、とある老人ホームを訪れた際、レクリエーションを担当させて頂く機会に恵まれました。まだまだお若い方も多く、一見、健康には何の問題もないように見えます。しかし、60人程の集まりであるにも関わらず、どこか全体としての活気に欠け、個々の表情も硬いことが、いつも気になっておりました。そこで「たとえ自分一人が浮いたとしても、なんとかここにエネルギーと明るさをもたらしたい」という一心でゲームを進行したところ、予想外に大きな「笑い」が起こりました。全体が一つになり、一人一人の表情にも活気が戻ったのを目にした時、私自身もとても温かい気持ちになりました。「心から楽しく笑うという行為が、こんなにもその場を和やかにしてくれるものなのだ」と実感させられたひと時でした。
日常生活の中には、笑いの種はいくらでも転がっています。そこにいる全ての人に気持ちの良い話題を選び、一緒に楽しく笑うことができれば、皆が身心共に健康でいられることでしょう。
最低でも「一日一笑」を心掛けて暮らしていきたいものです。
2009.12.1
第4話 横山 俊顕 Shunken Yokoyama
ココロの余白
私は現在、当Shojin-projectのサイト素材やフリーペーパー『shojin』のデザインを担当しています。専門に学んだ訳ではなく、デザインに関しては全くの素人です。そんな私をいつも悩ませるのが余白という存在です。
気がつけば文字やイラストがアートボードを埋め尽くしてしまい、そこから必要な情報を選別しつつレイアウトを組んでいきます。どこに余白を配置するのかで、仕上がりの印象はガラリと変わります。狭すぎては窮屈になり、逆に広すぎれば間の抜けた印象になります。デザイン関係の本を読めばいくつかのセオリーが書かれているものの、写真やイラスト、フォントや色あいによってそのバランスは刻々と変わり、あたかも生き物のような余白と格闘する日々。
この余白という存在は、人間の心についても同様のことが言えるような気がします。肩に力が入りすぎず、ゆるめ過ぎず、心に程よい余白がある時は仕事もプライベートもうまく進むもの。
忘れがちな「ココロの余白」大切にしてますか?
2009.11.19
第3話 長岡 俊成 Shunzei Nagaoka
縁結び
昨年の3月に、当プロジェクトで企画・運営させていただいた「東京禅僧茶房」には、お陰さまで200名を超える方にご来場いただきました。こうしたイベントに、「一過性のもの」「打ち上げ花火」といったイメージをもたれる方もおられるかもしれません。中には、お寺でコンサートを開催したり、文化イベントを行うなどの取り組みに対し、「イベント仏教」と揶揄する向きもあります。しかしながら、幸いなことに、「東京禅僧茶房」をきっかけにご縁を結び、「駒沢坐禅教室」などを通して絆を深めさせていただいている方が数多くいらっしゃいます。ありがたいことです。
これからも、「お寺は敷居が高く感じる」「身近に、仏教を学んだり、坐禅などを体験する機会がない」といった方々と幅広くご縁を結び、このWebサイトや、「駒沢坐禅教室」、そして当プロジェクトとご縁のあるお寺などを通して、末永いお付き合いをさせていただきたいと思います。今後とも、当プロジェクトをどうぞ宜しくお願いいたします。
2009.11.4
第2話 阿部 宗道 Shudo Abe
ラッシュアワー
我々「ShojinProject」のメンバーが研鑽を積む「曹洞宗総合研究センター」は東京の芝にあります。最寄駅は都営地下鉄三田線の芝公園駅で、周囲はオフィス街ということもあり、駅は毎朝多くの人でごった返します。朝は基本的に駅から出ていく人ばかりで、駅に入って行く人はまばらです。駅の出口階段は丁度二人が通れる幅なのですが、右側は駅に入ってくる人の為にみなさん空けて階段を上がられます。左側は時には駅から出る人で列ができてしまい、急いでいて非常にもどかしい思いをすることもありますが、右側から上がってしまう人はほとんどいません。いつ下りてくるかわからない、もしかしたら下りてこないかもしれない人の為に多くの人は道を空けているのです。
僅かの可能性を考えて自らの急ぐ気持ちを抑える。誰もが少しづつ、このような心を持てば世の中は円満に回るのです。
2009.10.15
第1話 赤間 泰然 Taizen Akama
一期一会(いちごいちえ)
私たちはこの一生の内に一体何人の人と出会えるのでしょうか。
今日言葉を交わした人と、次はいつ会うことが出来るのでしょう。
「今日の出会いは、ただ一度限り」
そう考えると、とても大切な時間だと思えませんか?
「一期」は人の一生、「一会」はただ一度きりの出会い。
家族や友人、たびたび顔を合わせる相手であっても二度と同じ時間を共有することはできません。今日何気なくした挨拶や食事も人生で一度きりの大切な時間なのです。
この度、Shojin ProjectのWebサイトは、「禅僧茶房 by Shojin Project」へとリニューアル致しました。当サイトへ立ち寄られる方との出会いもまた、その時だけの大切な時間です。
この禅僧小噺はスタッフが日々感じた思いを綴っています。禅や仏教の言葉だけではなく、私達とこのサイトを通じて出あう皆さんが「ほっと」出来るような時間と話を共有していきたいと願っています。